史跡崇徳寺跡調査速報展:平成26年6月1日(日)~6月29日(日)まで:板碑:拓本:丸瓦:元享三年1323:

史跡崇徳寺跡調査速報展:平成26年6月1日(日)~6月29日(日)まで:板碑:拓本:丸瓦:元享三年1323: ( 人類学と考古学 ) - 車QF - Yahoo!ブログ

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史跡崇徳寺跡調査速報展:平成26年6月1日(日)から6月29日(日)まで:板碑:拓本:丸瓦:元享三年1323:

発掘された
板碑とその拓本が3面にわたり展示されてます。


http://www.town.moroyama.saitama.jp/www/contents/1401434722055/index.html

溝跡から出土した約2mの大型板碑
http://www.town.moroyama.saitama.jp/www/contents/1401434722055/simple/140530192125_0.jpg


板碑の数、建立年代も書き加えられつつあります。

記録によると、延慶板碑の拓本でも調査しているが、その拓本は今回参考出典はされてない。
その当時からさらに風化が進んでいるので の4文字はさらに読み難いことだろう。


崇徳寺跡
について。

その遺跡から多くの板碑が集積埋没、或いはその周辺にある古い古墳の影響を受けたもの
など複雑な様相もあるが、その中で埋没板碑に混じり2個の丸瓦がほぼ完全な形態で見つかって
いる。

これは、寸法など確認してないが、入間市の博物館で紹介しているものとの類似性に興味がある。

瓦は鳩山とその近辺でも製造されていたようなので、今回発見のものが何処で造られたものかも
注目したい。

建築材としての瓦も当時貴重だったのだろうが、その2個以外の行方も注目だろう。

何処かの、資料でここからの瓦として紹介されているものもあるようなので、それとの比較も
大切だろう。


半丸瓦>丸瓦にもいくつかの製法とか系統があるようだ。

今回の2枚の丸瓦と金子周辺の、入間市の博物館の展示のものは年代的に違うようだ。





崇徳寺
の言及文献は「新編武蔵風土記稿」(川角村)とあるが、原書の筆跡は確認してない。
文政11年(1828)頃


宝暦12年 (1762)に作成されたとされる、「川角村絵図」には鎌倉海道付近に 宗とく寺
とある。 (とく)は文字コードであるのか確認中。

いくつかの伝承、もあるようだが、その原文を目にしてないので、各位の検証に期待したい。

文献からさらに、何らかの手掛かりがあるとよいのだろう。


遺跡からは現在のところ、その名称に係るものはまだないようだ。 決定的な、物的証拠があるのか
注目しておきたい。

実際、発掘したものからは年号とか種子とかいくつかの手掛かりもあるのかも。


日本には、国替えとかあった時代もあり、それに紛争での入れ替えなど多くの時代背景を経ている。

それに伴い、突如として、それも時代が遥かに経過した時代の人間にとって忽然と消滅したかの錯覚に

陥るケースもある。

それの1つに古い地名には大方その地名に沿った氏が存在する。 そのケースは氏が先で、地名がそれに伴ったというべきなのだろうか。

その、古い地名の地にその痕跡が無いケースがあったりする。 もし、他の地域でも似たようなケースがあれば紹介願えればと思います。


元享三年1323:の板碑の年の崩し字も面白い、書状などならここまで崩すのだろうがそこだけだと目を引く。

写真が無いので、似たようなものを組み合わせるしかない。

 

 

 コメント(28)

      

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スウトク寺(清水・伝)
ソウトク寺
ソートク寺(古き地元の方々の呼び方)
しょうとく寺

崇徳寺と書かれているが、文献から引用と地元の言い伝えのソートク寺で現地からの名称を示唆する、あるいはその漢字を記したものはまだ見つかってないようだ。 もし、それにつながるものが見つかると物的根拠の1つとなろう。

2014/6/29(日) 午前 7:47ogw*og*2

      

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異体字

2014/6/29(日) 午後 0:35ogw*og*2

      

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癸亥:60番目
みずのと・い

1323/60:3-3:0>60

2014/6/30(月) 午前 5:40ogw*og*2

      

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年号(元号)一覧

http://www.hana300.com/aanengou.html#k3

2014/6/30(月) 午前 5:44ogw*og*2

      

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いろは歌」を楽しむ
http://www.geocities.jp/eisyuu18/101.html

2014/6/30(月) 午前 5:49ogw*og*2

      

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各地に伝わる神代文字・阿比留草文字

2014/7/1(火) 午後 3:51ATS ]

      

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落款

東京都墨田区 江戸時代の大名庭園旧安田庭園へ(3)


http://blogs.yahoo.co.jp/rsjjr083/30923606.html

2014/7/1(火) 午後 4:07ATS ]

      

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偈(げ、gaathaa(sanskrit))とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。


http://ja.wikipedia.org/wiki/

2014/7/13(日) 午後 7:22ATS ]

      

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和田久雄?
ひさお

2014/8/7(木) 午後 10:21ATS ]

      

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じんがら
唐臼

2014/8/28(木) 午前 8:56ATS ]

      

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ギャンブル依存症536万人
しんぶん赤旗 - 6 日前
調査の結果、ギャンブル依存症の疑いがある人は成人男性の8・8%、女性の1・8%で、全体では4・8%にのぼります。研究班は、今回初めて、この有病率から推計の患者数を発表しましたが、男性438万人、女性98万人で、計536万人が ..


先進諸外国では2%前後と比べると倍以上と異常で、深刻な問題となっている。
実態が賭博となっている、実態を容認、拡大しようとする政党は
国家を脅かす。

2014/8/31(日) 午後 1:08ATS ]

      

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K003

http://media.kddi.com/app/publish/torisetsu/pdf/k003_torisetsu.pdf

2014/9/11(木) 午後 4:56ATS ]

      

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40000基の武蔵型が確認されている(川越市パンフレット)
その中で2000基が川越市で確認されているとされる。
資料はH14.03.23.(土)時点での印刷物時点と展示資料による。

2014/10/8(水) 午後 4:28ATS ]

      

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へい せい [0] 【平声】
⇒ ひょうしょう(平声)
ひょう しょう ひやうしやう [0] 【平▽声】

漢字の四声の一。上平(じようひよう)と下平(かひよう)の総称。現代中国語では陰平(上平)声・陽平(下平)声に分かれている。北京音では陰平声(第一声)は高平調,陽平声(第二声)は上昇調に発音する。ひょうせい。 ↔ 仄声(そくせい)

日本漢字音や国語アクセントの声調の一。低く平らに発音するもの。

http://www.weblio.jp/content/平聲

2014/11/11(火) 午後 10:38ATS ]

      

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古事類苑>歳時部一>歳時總載上>歳

http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000002.html

年?偬〈上通、下正、トシ、〉〈則天作レ此、トシ、〉

2014/11/12(水) 午前 0:44ATS ]

      

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甲骨文字

http://blog.163.com/sdcs_2009/blog/static/128044097201391802730499/

2014/12/30(火) 午後 9:46ogw*og*2

      

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崇徳寺

「新編武蔵風土記稿」(川角村)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764003

p65/123

小名:崇徳寺

村の艮(*1)


(*1)艮(ごん)は方角としては東北の方角となり、丑(うし)と寅(とら)の間であることから艮は「うしとら」とも読まれ、

https://ja.wikipedia.org/wiki/

そもそもの、川角のどの位置からその方角をみてるのか、
現在の寺、神社が古くから移動してない可能が高いとみると、
ほぼその先に書かれてる付近となる。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764003

2016/1/4(月) 午後 4:44ogw*og*3 ]

      

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崇徳寺

「新編武蔵風土記稿」(川角村)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764003

p65/123

小名:崇徳寺

村の艮(*1)の方にあり往古 鎌倉街道ありし時 崇徳寺と
いへる寺ありし故 小名となれり彼寺跡も残りてそこに
長さ
9尺横2尺5寸の古碑一基あり碑面に延慶第三暦仲春旬~



(*1)艮(ごん)は方角としては東北の方角となり、丑(うし)と寅(とら)の間であることから艮は「うしとら」とも読まれ、

https://ja.wikipedia.org/wiki/

そもそもの、川角のどの位置からその方角をみてるのか、
現在の寺、神社が古くから移動してない可能が高いとみると、
ほぼその先に書かれてる付近となる。

2016/1/4(月) 午後 5:04ogw*og*3 ]

      

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延慶3年の板碑の碑文の内容では若干の劣化などと、文面の人物特定
などでいくつかの考察があるようで、さらにサーチ考察しておきたい。


今按に

2016/1/4(月) 午後 5:42ogw*og*3 ]

      

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今按に、宮崎庄は往時宇佐領にて、彼の北方瓜生野より生目村など迄、大略庄田たり。景清と云ふは、此庄田に関係ある人にて、其名字の悪七兵衛に同じきより、後付会の談を為すがごとし 吉田東伍 『大日本地名辞書』 「宮崎郡生目」の項
16:00 - 2013年4月1日


https://twitter.com/_kagekiyo/status/318905857217789952

2016/1/4(月) 午後 6:05ogw*og*3 ]内緒

      

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TXT - 国立国語研究所
dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/buturuisyoko/004/txt/brsk-004.txt
2015年5月7日 ... ... のたぐひなり今按にかんじやうとは勧請{くはんじやう}といふことにや神をいはひま つる心だてなるべし又|神縄{かんじやう}なり共云紙手 かうで○江戸にて・をしがみと 云大坂及泉州堺にて・かうでと云中国及土佐にて・こうじやうと云今按に ...

2016/1/4(月) 午後 6:29ogw*og*3 ]

      

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以前、ここには外堀があり、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城" target="_blank" rel="nofollow">江戸城</a>の外郭門(がいかくもん)の一つ呉服橋門(ごふくばしもん)がありました。そして、門に付属する橋である呉服橋が架けられました。<br />

2016/1/4(月) 午後 7:07ogw*og*3 ]内緒

      

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「御府内備考(ごふないびこう)」という史料の「呉服橋御門」の項には、橋の由来が次のようにあります。<br />
『古くは後藤橋といへり。【<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/寛永" target="_blank" rel="nofollow">寛永</a>中江戸絵図】呉服町へ出る御門なれば呉服橋と唱へ来れりと。【江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)』<br />
これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。<br />
なお、外堀が昭和二十九年(1954)頃から埋め立てられたため、呉服橋も含め外堀沿いの橋は次第に姿を消していきました。<br />
平成九年三月 千代田区教育委員会

2016/1/4(月) 午後 7:08ogw*og*3 ]

      

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江戸紀聞】今按に、寛永の頃後藤橋と称せしものは、御門外に呉服師後藤が宅地あるよりの私の呼称なるべし。(後略)』
これによれば、呉服橋と呼ぶのは呉服町へ出る門に架かるためで、また寛永(1624~43)頃に後藤橋と呼んだのは門外に呉服師の後藤家の屋敷があったためとしています。
http://yasuda.iobb.net/wp-googleearth_e/御曲輪内-2/呉服橋付近

2016/1/4(月) 午後 7:36ogw*og*3 ]

      

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新編鎌倉志 序三種 凡例 引用書目 - nifty
homepage2.nifty.com/onibi/kamakurasi0.html
今按(ずる)に歌は鴨長明が作にして、詞は後人の贅する所ところなるか。】 「海道記」は 「東関紀行」「十六夜日記」と並ぶ中世三大紀行文の一つで、貞応二(一二二三)年四月 四日、「白河の渡り中山の麓に閑素幽栖する」五十歳を過ぎた侘士という出家が京都 ...

2016/1/4(月) 午後 7:55ogw*og*3 ]

      

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親鸞の中心思想 ー三願転入の論理ー
www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku2/j2shin5.html
次の第二段階は「善本徳本ノ眞門」「難思往生之心」と呼ばれ、最終の第三段階は「選擇 ノ願海」「難思議往生」と呼ばれる。 ...... 今按スルニ二三經ヲ一皆ナ・以テ金剛ノ眞心ヲ 為セリ二最要ト一眞心即是大信心ナリ(化身土巻本)5/294 .... ハ) 按レ二三時教ヲ一者 (ハ)勘(カンカフ)ニ二如来般(ハチ)涅槃ノ時代ヲ一當レリ二周(シウ)ノ第五ノ主穆( ホク)王五十一年壬(ミツノヘエ)申ニ一従二其ノ壬申至マテ二我カ元仁元年甲(キノエ) 申 ...

2016/1/4(月) 午後 7:59ogw*og*3 ]

      

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崇神天皇
すじんてんのう/すうじんてんのう
崇神天皇は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇であり、現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。 和風諡号『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇。また、御肇國天皇と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命である。 ウィキペディア
生年月日: 紀元前148年
死没: 紀元前29年
親: 開化天皇
子: 垂仁天皇
孫娘: 倭姫命
祖父: 孝元天皇


https://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇

2016/1/29(金) 午前 5:54ogw*og*3 ]

      

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日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。このように崇神天皇大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国崇神天皇のかかわりをどう考えるかが問題になってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好による「崇神天皇卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」という説、西川寿勝の「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などが提唱されている。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説などが存在している。

2016/1/29(金) 午前 7:00ogw*og*3 ]

      

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日本書紀』の記述では、神武天皇畿内で即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて日本の広範囲の出来事の記述が出てくる(崇神天皇による四道将軍の派遣派兵など)ことから、崇神天皇が初代天皇ではなく欠史八代が史実を反映していると見る立場から、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、

https://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇

2016/1/29(金) 午前 7:02ogw*og*3 ]

      

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おひがし
大東自動車
おみやさま

2017/1/26(木) 午前 3:13ogw*og*3 ]内緒

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浅羽氏:紅の浅羽野に生きる:浅羽芳久・昭和18年2月静岡県磐田郡浅羽町に生:浅羽太郎左衛門尉: 単行本: 218ページ 出版社: 文芸社 (2005/01) ISBN-10: 4835582233 ISBN-13: 978-4835582238 発売日: 2005/01 商品パッケージの寸法: 18.8 x 13 x 1 cm http://www.amazon.co.jp/紅の浅羽野に生きる―浅羽家のルーツにロマンを求めて-浅羽-芳久/dp/4835582233

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2014/8/28(木) 午前 7:03 [ ATS ]

      
Puzzle:醫ノヒトコト;権田直助:P-1-1-3G:神:

Puzzle:醫ノヒトコト;権田直助:P-1-1-3G:神:...

2014/10/5(日) 午前 7:07 [ ATS ]

      
瓦経:がきょう:

瓦経 がきょう 経典を粘土板に錐などで書写して焼いたもの。 30cm前後の方形のものが多い。経塚埋納経典の一種で,おもに 11世紀後半から 12世紀後半にかけて行われた。近畿以西に多くみられ,延久3 (1071) 年の大日寺瓦経 (鳥取県倉吉市桜) は紀年銘のある最も早い例である。 本文は出典元の記述の一部を掲載しています。 https://kotobank.jp/word/瓦経-43502 7 市 瓦経 1点 郭町2-30-1 川越市 昭和29

2014/10/8(水) 午後 5:06 [ ATS ]

      
拓本:石碑:題目板碑:

拓本:石碑:題目板碑: 1290:最古? 、池上本門寺大坊本行寺 1292:正応五年、松伏町下赤岩蓮福寺、 1389:康応元年七月日 1392:明徳三年壬申四月四日 1***: 1477:文明九丁酉七月五日...

2015/12/5(土) 午前 1:09 [ CQF ]

      
拓本:板碑:北浅羽:万福寺:1307:アーンク:延慶三年1310:

拓本:板碑:北浅羽:万福寺:1307:アーンク:延慶三年1310: 1307:北浅羽:万福寺 1310:延慶第三暦庚(戌)仲春中旬 敬白 三年 偈:越生町興禅寺、建武の板碑にも同じ4句が見られると、紹介あり...

2015/12/5(土) 午前 7:45 [ CQF ]

      
拓本:板碑:1305嘉元三年乙巳正月四日:キリーク異体:ラ約35度:光明遍照:

拓本:板碑:1305嘉元三年乙巳正月四日:キリーク異体:ラ約35度:光明遍照: WN15No25p15...

2015/12/12(土) 午前 9:13 [ CQF ]

      
MAP:日本書紀:四道将軍の派遣派兵:四道の地図上範囲:丹波道山陽道東海道北陸道

MAP:日本書紀:四道将軍の派遣派兵:四道の地図上範囲:丹波山陽道東海道北陸道 四道将軍の派遣派兵 『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/四道将軍...

2016/1/29(金) 午前 7:27 [ CQF ]

      
西戸古墳群:越生五領遺跡:下ケ戸薬師堂:南比企窯跡群:須惠器:瓦:新沼窯跡:瓦文様:鳥衾:とりぶすま:

西戸古墳群:越生五領遺跡:下ケ戸薬師堂:南比企窯跡群:須惠器:瓦:新沼窯跡:瓦文様:鳥衾:とりぶすま: 新沼窯跡: 瓦:軒丸瓦の文様 棒状子葉単弁軒丸瓦:赤沼古代瓦窯跡、東松山大谷瓦窯跡などで生産。 小用廃寺、勝呂廃寺に使われた。(、東松山市大西遺跡、) 武蔵国分寺: https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵国分寺跡 旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの 750年代末から760年代初と推測されている。敷地は東西8町、南北5町半と推測さ

2016/10/8(土) 午後 7:01 [ CQF ]

      
重殿淵の祓:流鏑馬祭:拓本:

重殿淵の祓:流鏑馬祭:拓本: 祓(はらえ、はらい) https://ja.wikipedia.org/wiki/祓 大正、昭和刊行資料からみられる、変容。 八高線はいつから全線開通された? 新たに開設された駅は? 淵と付く地は、将冠淵?、重殿淵? など いくつかありそうだが。 1 埼玉県神社特殊神事のイメージ 埼玉県神社特殊神事 図書 埼玉県神職会 編 (埼玉県神職会, 1921) 目次:〓社出雲伊波比神社流鏑馬祭 〓 http:/

2017/4/18(火) 午後 8:45 [ CQF ]

      
凡:也:拓本:地名字音転用例

凡:也:拓本:地名字音転用例 地名字音轉用例 https://ja.wikipedia.org/wiki/地名字音転用例 http://www.utakura.com/textworks/timei.htm http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_04601/ho02_04601.html 凡:右から3行、上から3文字目 也:右から2行、上から3文字目 と 右から3行、上から2文字目...

2017/4/22(土) 午後 2:52 [ CQF ]

      
拓本:崇徳天皇:1123年:

拓本:崇徳天皇:1123年:...

2017/4/30(日) 午後 5:51 [ CQF ]

      
史跡崇徳寺跡:推定[苦林宿]鎌倉街道

史跡崇徳寺跡:推定[苦林宿]鎌倉街道 ガイド・ブック,p21 に以下の紹介がありました。 (概略のみ引用) 「 、鎌倉街道が越辺川を渡る地点には「苦林宿」と推定される宿場の跡が発見され。 (その)西端には崇徳寺跡という中世の墓域も発見され、鎌倉時代から室町時代ぐらい までの・・・・(宿場の営みの痕跡が) わかりました。 鎌倉にゆかりのある、毛呂氏もその街道を往来したのであろう。 宿場跡とされるものの発掘資料があるので、再度サーチしておきたい。 「苦林

2018/11/15(木) 午前 7:26 [ CQF ]

      
拓本:清水寺:きよみずでら:寺子屋:てらこや:桂木観音:桂木寺:

拓本:清水寺:きよみずでら:寺子屋:てらこや:桂木観音:桂木寺: 寺:ジ(常用 音)、てら(常用 訓) 音訓 音読みはシ(漢音)、ジ(呉音)、ス(唐音)、訓読みは、てら。 https://dic.nicovideo.jp/a/穴太寺(あなおじ)(京都府亀岡市三井寺は、正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)天台寺門宗の総本山 「仏教の意味合い、区別 」+ じ 寺の読み方が地名と異なることも http://college.

2018/12/7(金) 午前 7:26 [ CQF ]

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