行基:足跡:
補陀落山那古寺(千葉県館山市)
千葉寺(千葉県千葉市)
大善寺(山梨県甲州市勝沼町)
高尾山薬王院(東京都八王子市)
摩訶衍寺(広島県尾道市原田町)
桂木観音(埼玉県、毛呂山町)
満明寺(長崎県雲仙温泉)
雲峰寺(山梨県甲州市)
一方、百済後裔というのは、系譜を飾るための装飾であって、
『日本現報善悪霊異記』にあるように越後国頸城郡出身とする意見もある[7]。
天智天皇7年(668年)、河内国大鳥郡(天平宝字元年(757年)に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)で父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる[1]。
『大僧正舎利瓶記』に「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」とあり[8]、天武天皇11年(682年)に[1]15歳で大官大寺で[9]、得度を受け出家し、法行と称した[10]。
持統天皇5年(691年)、24歳で戒師の葛城山高宮寺徳光禅師のもとで受戒する。
691 年(持統5) 24 歳、受戒し比丘(大僧)となる。
「年十五にして出家入道し、廿四にして具足受戒す。戒師は高宮寺の徳光禅師なり」(『行基菩薩伝』)
飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び[11]名を行基と改めた[10]。
教えを受けたとされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名であり、それとともに井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている[12]。ただし、行基が道昭に師事したという伝承もあるが、行基の遺骨を納めた瓶『舎利瓶記』、『日本現報善悪霊異記』には記されておらず、疑問視する意見もある[13]。
大宝4年(704年)、生家を家原寺に改め、母と大和国の佐紀堂で暮らす[14]。
40歳で生駒山の草野仙房に母親と移り修行する。
43歳で母を亡くし3年間喪に服す。
738年:天平10年:(推定:70才)
やがて聖武天皇の方から接近して、行基は740年(天平12年)から聖武天皇に依頼され東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力する。
天平13年(741年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年(743年)東大寺の大仏像造営の勧進に起用されている。
天平17年(745年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた(『続日本紀』)
大仏造営中の天平21年(749年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅。
https://www.narahaku.go.jp/collection/p-490-0.html
ぼしだんぺん(ならけんぎょうきぼしゅつど)
墓誌断片(奈良県行基墓出土)
[10] ^ a b 『堺市史』第七巻第一編 人物誌 第一章 黎明期(堺市立中央図書館)2023年1月9日閲覧
https://itami-bunbora.main.jp/jinbutu/jinbutu_photo/jinbutu_gyoki.pdf
天智天皇が崩じた翌年(672年)に壬申の乱がおきた時は、行基5歳であった。
https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2024/07/行基.pdf
参考史料・文献
・『大僧正舎利瓶記』(略『舎利瓶記』)
・『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)
・『続日本紀』
・『行基菩薩伝』
・吉田靖雄『行基』(ミネルバ書房)
・根本誠二『行基伝承を歩く』(岩田書院)
・千田稔『天平の僧 行基』(中公新書)
・渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』(講談社)
・奈良県文化資源活用課『行基』
・小松茂美編『日本絵巻大成 東大寺大仏縁起』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_77/_pdf/-char/ja
行基年譜
1175年:安元元年の成立としているが、他の資料との突合せに言及あり。
p1/6:作者:泉高父とされている。
682:壬午:じんご:天武11:15歳:
大僧正舎利瓶記: