地名入西入東:吾野:

地名

入西入東

入西(入間)入東

 

個別データベース概要

 

日本荘園データベース
Manors in Japan Database
公開年月:1993年12月

荘園関係文献目録データベース
Manors-in-Japan Bibliography Database
公開年月:1993年12月

 

 

歴史地名マップ - 歴史地名データの多数の地名を同時表示できる地図 | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の古代道路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉街道上道埼玉県全図

藤岡

児玉

()木

花園

塚田

奈良梨

菅谷

大蔵

笛吹峠

苦林

町屋

女影

入間川

所沢

 

 

江戸時代MAP

しか:志賀:

おおるい:

 

geoshape.ex.nii.ac.jp

 

 

 

 

 

おなかげ

女影の地名の由来となったと言われる仙女ヶ池。

由来は新編武蔵風土記稿に「昔、せんという名の女性がこの池に身を投げたが、その後その女性の人影(女影)が時々池の中に現れようになった」と書かれています。 田んぼより一段上にある日高市立高根中学校が建つあたりが三枝氏屋敷跡。

 

https://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/moroyama01/nisiooya.html

 

高橋さんの写真記念館 飯能・日高むかしむかし=女影(おなかげ)里哀話・1(1/5)

 

鎌倉街道 上道を走る 西大家~武蔵嵐山|dash2

 

http://ris-geo.jp/pdf/publication/09-079.pdf

 

吹上 - Wikipedia

 

 

 

武家家伝_児玉氏

 

 

 

 

 

 

 

橘樹郡 - Wikipedia

飛鳥・奈良時代(7世紀以降)

橘樹郡衙跡碑(橘樹官衙正倉遺跡、千年伊勢山台北遺跡)

影向寺(2005年4月9日撮影)
大和政権の統治下、律令制の下で国・郡(評)・郷の行政区画が整備される。この地域は武蔵国橘樹郡となった。

 

414    武蔵    橘樹    △小高駅    延喜式/『和名類聚抄』高山寺
415    武蔵    橘樹    ☆稲毛    稲毛荘検注帳
416    武蔵    橘樹    ☆井田    稲毛荘検注帳
417    武蔵    橘樹    ☆田中    稲毛荘検注帳

 

423    武蔵    男衾    *余戸    <木:荷札>天平18年11月(西暦    746(年), 11(月))

424    武蔵    幡羅    ☆𤭖原    源頼朝寄進状

幡羅郡 - Wikipedia

はら:はたら:

 

425   武蔵    賀美    *武川    正倉院銘文

賀美郡 - Wikipedia

 

 

 

 

かいと・がいち・がうち(垣内・〇ヶ市・〇ヶ内) - 四万十町地名辞典 地名は先人の語り部 「進化する辞典」 「地名の井戸端会議」

 

2    峰垣戸    みねがいと    愛知県    豊田市有間町峰垣戸    [24235]
3    上野垣戸    うえのかいど    三重県    亀山市阿野田町上野垣戸    
4    下垣戸    しものかいど    三重県    亀山市阿野田町下垣戸    [101516]
5    御座垣戸    みざがいど    三重県    亀山市阿野田町御座垣戸    [101516]
6    門垣戸    もんがいど    三重県    亀山市阿野田町門垣戸

 

町史:民族社会編:p31

~がいと:とうながいと:

かいと:かやと:

一区画の土地、集落

五味ヶ谷

 

とうながいと:大門:くろだいり:しろたいり:

 

 

大門:町屋:

 

大門:南向き:

 

 

 

 

 

 

 

 

入間郡

新編武蔵風土記稿 之156

入間郡之一

郡図/総説

 

入間郡ハ國ノ中央ニテ江戸ヨリ西北ノ方七里許ニアリ

和名抄 国郡部ノ部ニ入間ヲ訓シテ伊留未ト註ス

和名類聚抄 国郡部 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

群名ノ起ハ郡中入間川村ヨリ始リシナラン其村今モ入間郡ニ□□

□正保ノ頃マテハ入間トイヒシヲ後世川ノ字ヲ添シトナリ クワシクハカノ村ノ條ニ

 

(辦)セリ又土人の説ニ入間ノ字ハ(假)借ニテソノ義ハ射魔ナリトイフ

俗説アレトコゝニハ取ラス

 

「ここでは俗説は取り上げないとしている。

 

コノ郡名古書ニ著ルゝモノハ續ハ

日本紀神護景雲二年七月壬午?ノ條ニ

武蔵國入間郡人物部廣成カコトヲ載スコレ始ナルヘシ姓氏録ニモ入間宿禰

ノ姓アリ是モ當郡ヨリ起リシ姓ナルヘシ又當郡古ハ多磨郡ニ通シテ茫茫タル原野ナリ

都テ是ヲ武蔵野ト號シ後世分チテ入間野ト記セシモアリ

 

年号と六十干支(ろくじっかんし)との整合性は検証要

こよみ用語解説 六十干支のよみ方 - 国立天文台暦計算室

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/神護景雲

神護景雲二年(戊申)(768)

https://ja.wikipedia.org/wiki/壬午

 

 

 

東鑑ニ於入間野有追鳥狩ト記セシ類ナリ 又三芳野ノ鴈 伊勢物語ニ見ユ

堀兼ノ井枕草紙及千載集俊成卿歌ノ類ノ如キ郡中ノ地名縉縉紳家ノ歌枕ニ

モ入シユヘニヤ郡名モ自ツカラ世ニイチシルシ後世ニ至リテ郡中ノ廣野多クハ新墾シテ

悉ク田畝畝トナリ人家モ従テ出来ニケレハ古トハ大ニコトナリ又中古ヨリ郡中

二分シテ入東入西ノ唱アリコレ多磨郡ヲ多東多西ト別チシニ同シ七黨(党)系圖ニ

兒(児)玉惟行三代ノ孫入西三太夫資行ト云人アリソノ子ヲ浅羽小太夫行業ト云淺羽(浅羽)ハ

則當郡ノ郷名ナレハ入西モ此郡名ナシ是古クヨリ入西ト分チ唱フ

ルノ證トナスヘキヤ又寛治元年鎌倉公方ヨリ下文ノ案ニ吾邦人西郡ト記セシコト

郡中今市村法恩寺所蔵年譜録ト伝記ニ見ユ世下リテ天文永禄ノ頃帯モ專ヲ東西ヲ以

唱ヘシコト小田原役帳及當時ノ古證文ナトニ歷々タリ東西ノ界限詳ナラス小田原役帳ニ據テ

考レハ大抵入間川ヲ界トセシカコトシ此郡古ヲ以考フルニ國ノ中央ニ當リテ多磨ノ府ヨリハ若干ノ

廣野ヲヘタテ足立ノ府ヨリモ荒川及水涯ノ閉地アリテ往来ノ道ヲサゝヘタレハニヤ別ニ郡家ヲ置レテ

進退ノ指揮アリシト思ハル後世武家ノ世トナリテモ川越ニ館アリ是

今ノ高麗郡上戸 村ノ邊ナリ其後因循シテ鎌倉公方ノ比ヨリカノ地ニ城郭ヲ構ヘテ近郷ヲ治メ

シメシカ□モ便アシケレハトテ今ノ地ニ城壁ヲウツシケリ爾リシヨリ

モアマタノ年ヲヘテ御打入ノ ハ 々其城ヘ大名ヲ置ル故ニ城下市街ノ繁華ナル自ヲ郡中ノ便宣ヲ

ナセリ郡ノ地域ハ其形(璧)ヘハ瓢箪ノ如ク中間狭マリテソノ邊ヲ

入間川流ルゝ  □テ其地形二郡ノえ如シ古入西郡入東郡ト分チ唱ヘシモ其理ナシ

トセス彼括リタル如キ所

ヨリ西ヘサシ出タル一區ハ高麗秩父比企三郡ノ際ニ

ハサ

マリテ東西ノ徑リ凡四里半南北ノ濶サソノフクレタル處二里ニ

餘リ狭キ所ハ一里

ニ過ス東ノ一區ハ北ノ方比企足立ノ郡ニ封シ東ハ新座郡ニ接シ南ハ多磨郡ニ包

 

マレ西ハ高麗郡ニテ大抵入間川ヲ以界トセリ南北ノ長五里東西ノ幅三里半ナリ二

區ヲ合シ斜ニ延亘シタル長ハ殆ト十里ニ及フヘシ土性ハ大抵野土ニシテ陸田多シ

水田ハ西北ノ方川ニ添テ平坦ノ地ニアリ スヘテ此邊ノ地勢ヲ考フルニ東ハ卑ク西

ノ方ヘ漸クニ高クシテ秩父郡ノ山足コノ郡中ニ始ルニ似タリ郡内ニ二條ノ往還アリ

其一ハ川越城下ヨリ江戸ヘノ道ナリ城下ヨリ東ノ方大井町ヘカゝリテ三里半ヲ

經テ新座郡和田町ヘ達ス其一ハおよ江戸ヨリ秩父郡及上野國ヘノ往還ナリ

多磨郡南

秋津村ヨリ入テ高麗郡高萩村ヘ達ス其間三里半許高麗郡ノ中ニテ二條ニ別レ秩父

及ヒ上州ニ達ス其上州道ハ又郡中津葛貫村ヘ入二里許ニシテ比企郡ニ入ル

問?(とう?)郡ノ

形状中間ニ川越城アリ東ニ柳瀬川流レ南ニ狭山ノ峯ツゝキ西ハモトヨリ秩父ノ方ヘ

連レル山足ニテ北ハ越邊入間荒川ノ延回シテ界ヲナスサレト中間高麗郡ノ地

押入タレハ其詳ナルコトハ記シカタシ猶圖ト照シ見ルヘシ然ルニ以上ノ經界ハ後

世大ニ變革セシト覚エテ和名抄郷名ノ中廣瀬ナトハ今其遺名アレト本郷ニ入スシ

高麗郡ニ属ス又郡中法恩寺年譜録ニ 載ル大豆土村今比企郡ニ属スルノ類ニテ知

ヘシ人物風俗等ニ至リテハサセル殊異ナシトイヘトモ西ノ方山ニ添ヒタル地ハ尤

鄙野ノ風アリ

 

 

 

 

 

 

 

寛治

https://ja.wikipedia.org/wiki/吾妻鏡

 

 

 

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/新編武蔵風土記稿

新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)は、文化・文政期(1804年から1829年化政文化の時期)に編まれた武蔵国(御府内を除く[1])の地誌。

昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂された。1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した[1]。全265巻[1]。

 

 

156 入間郡 1 郡図、総説
157 2 山口領 坂下村、城村、本郷村、大岱村、上安松村+、下安松村+、北秋津村+、久米村(附平塚新田)、岩崎村、所沢村+、藤沢村+、林村+、上新井村+、下新井村+、打越村、堀之内村、荒幡村、菩提木村
158 3 氷川村+、北野村(附北野新田、中北野新田)、新堀村、町谷村+、川辺村+、堀口村、大鐘村、勝楽寺村
159 4 三ヶ島村+、堀之内村+、二本木村+、富士山村、富士山栗原新田、高根村、駒形村、坊村、中野村、大森村、荻原村、小ヶ谷戸村、矢寺村、麹谷村+、扇町屋村+
160 5 金子領 木蓮寺村+、峰村+、寺竹村+、三ツ木村+、上谷ヶ貫村+、下谷ヶ貫村+、花木村+、中神村+、小谷田村+、新久村+、高倉村+
161 6 未勘 黒須村+、入間川村+、(入間川村之内)田中村、(入間川村之内)沢村、上奥富村、下奥富村、三ツ木村、加佐志村、青柳村、山城村、藤倉村、栢原村
162 7 河越領 河越城并城下町、松郷+、脇田村
163 8 伊佐沼村、杉下村、小仙波村、大仙波村、仙波新田、岸村、新宿村、野田村、野田新田、大塚村、大塚新田、豊田本村、豊田新田、大袋村、大袋新田、池辺村
164 9 増形村、南入曽村+、北入曽村+、堀金村、今福村、中福村、砂久保村、中新田、上赤坂村、下赤坂村、上松原村、下松原村、水野村、亀窪村、大井村、南永井村、北永井村
165 10 針ヶ谷村、水子村、宗岡村、上南畑村、下南畑村、南畑新田、勝瀬村、鶴馬村、苗間村、竹間沢村、藤久保村、亀ヶ谷村、上富村、中富村、下富村
166 11 神谷新田、北田新田、駒林村、福岡村、福岡新田、大久保村、渋井村、古市場村、川崎村、寺尾村、鶴岡村、藤馬村、砂村、砂新田、扇河岸、上新河岸、下新河岸
167 12 牛子村、木野目村、今泉村、久下戸村、並木村、南田島村、大中居村、小中居村、高島村、八ツ島村、古谷本郷、古谷上村、鴨田村、石田本郷、北田島村
168 13 谷中村、菅間村、石田村、寺井村、寺井松郷、寺井伊佐沼、府川村、高畑村、網代村、志垂村、宿粧村、東明寺村、小久保村、向小久保村、今成村、小室村、小ヶ谷村
169 14 上寺山村、中寺山村、下寺山村、福田村、横沼村、紺屋村+、中小坂村、青木村、小沼村、赤尾村、塚越村
170 15 未勘 石井村、島田村、片柳村、片柳新田、大塚新田、関間新田、藤金新田、坂戸村、栗生田村、上浅羽村、下浅羽村+、厚川村、萱方村+、森戸村、森戸新田、大在家村、高倉新田、勘六新田
171 16 駒寺新田、四日市場村、市場村、市場新田、下河原村、田波目村、葛貫村、宿谷村、権現堂村、大谷木村、阿諏訪村、滝野入村、上野村
172 17 毛呂本郷、堀籠村、馬場村、平山村、長瀬村、小田谷村、前久保村、川角村(附玉林寺村)、大久保村+、大類村、小用村、苦林村、成願寺村、欠野上村
173 18 入西領 善能寺村(附牛久保)、大塚村+、峰村、堀籠村、新堀村、塚崎村、中里村、戸口村、新ヶ谷村、上吉田村、和田村、沢木村、金田村、今西村、北浅羽村、竹之内村、長岡村、小山村
174 19 越生郷 今市村+、箕和田村、西戸村、如意村+、和田村、黒岩村、津久根村、小杉村
175 20 太満村、黒山村、竜ヶ谷村、上谷村、堂山村、鹿下村、成瀬村+、大谷村

 

 

 

和名抄 国郡部雜

 

武蔵國 国府 在1 多磨郡2 行程上二十九日下十五日 

菅二十一 田三萬五千五百七十四

町七叚?九十六歩正公各四十萬束木稲百一萬三千

七百五十束五把雜?稲三十一萬三千七百五十束把

(変換コード要検証

 

 

 

 

 

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_00954/i03_00954_0001/

広益俗説弁

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00775/i04_00775_0257/

 

 

 

 

 

 

 

https://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/shogaigakushu/bunkazai/ogosebunkazai/1456451063322.html

 

法恩寺。入間郡越生町越生にある真言宗智山派寺院

 

越生氏について:村本達郎:AY10p1-4

ここに、鳴瀬 (成瀬)なる記述も興味ある。

報恩寺年譜(法恩寺年譜)文治2年:1186:河内守越生次郎家行

文治5年:1189:源頼朝越生次郎家行に報恩寺の堂塔仏閣建立を課している。

 

吾妻鏡:文治5年:1189:小越右馬允有弘の記述

年譜:倉田孫四郎基行の事を「河内守越生次郎家行之叔父」と。。。

 

吾妻鏡:文治5年7月19日、源頼朝が奥州の泰衛討伐軍:その中に

小越右馬允有弘の名

又建久元年:1190:11月7日:小越四郎、小越右馬允

建久3年:6月14日:宇治合戦に、小越四郎、

小越四郎太郎、小越右馬太郎の名

 

太平記:十九「青野原軍の事附□沙背水の事」顕家卿をば、

武蔵国越生四郎左衛門尉討ち奉りしかば、。。。

 

 

 

 

https://www.city.hanno.lg.jp/material/files/group/65/1418108991796.pdf

(文・金澤)

吾那:我那:吾野:我野:「現・あがの」

地名表記のへんようの詳細は元資料を参照要

吾野ー1599年代の文書

慶長四年(己亥)1599年代

 

 

 

郷土はんのう

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