拓本:台東区立書道博物館:歴史:石碑>古事記:日本書記:元禄11年9月15日:為秋光妙徳信:今市:武州:武刕:

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拓本:台東区書道博物館:歴史:石碑:元禄11年9月15日:為秋光妙徳信


「  拓 本 と そ の 流 転  」 展示一覧

東京国立博物館 平成館 
企画展示室においても同テーマで開催 / 前期展示: 3月15日(火)~4月17日(日) 
/ 後期展示: 4月19日(火)~5月15日(日)
表示のない作品は全期間(3月15日~5月15日)展示。
※21:「十七帖(上野本)」は3月15日(火)~3月21日(月)の展示となります。





http://www.taitocity.net/taito/shodou/shodou_guide/shodou_guide1.html
入館料  一 般     500円(300円)
 小、中、高校生 250円(150円)
 ※( )内は、20人以上の団体料金
開館時間  午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)

休館日 ・月曜日(祝日と重なる場合は翌日) 
・12月29日~1月3日
・特別整理期間等

所在地  〒110-0003 台東区根岸2丁目10番4号
   
電話  (03)3872-2645


・案内図(地図)
http://www.taitocity.net/taito/shodou/shodou_download/shodou_download.html





>古事記:日本書記:

魏志倭人伝の原文:古事記原文:倭国大乱~卑弥呼共立


http://blogs.yahoo.co.jp/ogw3ogw3/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B8%C5%BB%F6%B5%AD&sk=0
http://blogs.yahoo.co.jp/ogw3ogw3/34208143.html


倭・倭人関連の中国文献 

倭・倭人関連の中国文献 倭・倭人関連の中国文献 (わ・わじんかんれんのちゅうごくぶんけん)は、 倭 ・ 倭人倭国のことが書かれている中国の文献について解説する。 『 晋書 』 本文 太康10年(289年)の条には、 「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」 とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。 書や記事について 日本については東夷伝武帝紀に書かれている。 邪馬台国についての記述がある... 

2011/5/4(水) 午後 5:07 [ 底質汚染・底生生物減少・水域汚染&国境警備 独学帳 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu/51652770.html


古事記:日本書記: 

古事記:日本書記: http://ja.wikipedia.org/wiki/古事記 古事記 712和銅5年に献上、原本は残ってないとされる。写本があり、多くの解釈本も残されているようだ。 青木周平 「古事記の諸本」『古代説話 記紀編』 桜楓社、1988年(昭和63年)4月20日、pp. 14-19。ISBN 4273022451 「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる 1371~1372最古の写本「真福寺古事記3帖」国宝、僧・賢瑜(名古屋・真福寺)、宝生 

2012/1/10(火) 午後 11:19 [ ATS ]

http://blogs.yahoo.co.jp/ats_888888/35926387.html



Photo:20110622
元禄11年9月15日:
石仏

為秋光妙徳信**之




今市:武州:
WN11No5p19B


武刕
武州(ぶしゅう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵国

 

 

 

 

コメント(98)

   

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拓本

2006/10/24(火) 午後 2:00

瓦の拓本です 漢字の拓本です 拓本を取っている所 完成です 買い物に出たら拓本を取っていらしゃるのに出会いました。 珍しくて見せていただきました。 石に水をうって紙を貼ります。 その後ていねいに、石と紙の間の空気を抜きます

2011/4/17(日) 午前 0:05ogw*og*2返信する

   

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武井武雄レリーフ拓本『菊妖記』
http://blogs.yahoo.co.jp/azusa12111/42837308.html
集字聖教序 拓本
http://blogs.yahoo.co.jp/penjiessey/2264915.html
東京国立博物館台東区書道博物館 連携企画 拓本とその流転
http://blogs.yahoo.co.jp/eunicajp/36206605.html
淡水の河谷と力は拓本をとって皆多い鉄鉱石の価格の
http://blogs.yahoo.co.jp/fundakastockagd/2652410.html

2011/4/17(日) 午前 0:13ogw*og*2返信する

   

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東京国立博物館台東区書道博物館 連携企画 期間 2011年03月15日(火)~2011年05月15日(日) 
会場 東京国立博物館・平成館 企画展示室
毎年恒例となった台東区書道博物館との連携企画、2011年度は中国の拓本(たくほん)を取り上げます。古代の中国では、簡便に複写をとる拓本の技法が考案されました。現存する最古の拓本は、敦煌(とんこう)の蔵経洞(ぞうきょうどう)で発見された唐時代の温泉銘ですが、拓本の起源はそれ以前に遡ると考えられます。しかし唐時代の拓本は、ごく僅かしか残されていません。宋時代には、上質の紙や墨が製造されるようになり、拓本の技法も多様になります。上等な拓本は、工芸意匠の粋を尽くした、えも言われぬ美しさがあり、収蔵家の垂涎(すいぜん)の的となりました。本展は、名拓の数々とともに、拓本のたどった流転にも目をむけ、さまざまなエピソードを交えてご紹介します。この機会に、拓本の持つ魅力を存分にお楽しみください。
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=718

2011/4/17(日) 午前 0:14ogw*og*2返信する

   

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近年、教室を出て、野外で観察をしたり、地域を調査したりする学習の機会が増えてきています。それぞれの地域に残る石碑や記念碑、「先生、これ何て書いてあるの」と子ども達から質問された経験をお持ちの先生も多いことと思います。
そこで今回、教師と児童、生徒が一緒になって取り組める「拓本のとりかた」を掲載してみました。
総合的な学習の時間や社会科の調べ学習などでチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
拓本には、シり気のない紙を当て、その上からやわらかい釣り鐘墨などで摺(す)って文字や模様を写し取る「乾拓(かんたく)」と呼ばれる方法と、紙を当て水で湿らせてはりつけ、上から墨汁を含ませたタンポで軽くたたいて文字や模様を写し取る「湿拓(しったく)と呼ばれる方法があります。
http://www.ysn21.jp/~eipos/data/02_WB/h15/takuhon/

2011/4/17(日) 午前 0:26ogw*og*2返信する

   

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小豆島に集まれ!たくさんの笑顔たち - livedoor Blog(ブログ)
大阪城の石垣石を運び出した場所も行長ゆかりの地ということで、筑前福岡藩主黒田筑前守長政、忠之父子が採石をしていた岩谷地区の天狗岩丁場にも行ってみました。 階段の上から見下ろしてるのに、山から ... そこに“じねんじょの三吉”と呼ばれる子どもの馬子が呼び込まれ、姫に道中双六を披露します。 ... 延享3年8月、大阪 竹本座で「 人形浄瑠璃」で初演。平安時代菅原道真失脚事件を題材にしたもので、全5段からなる。 ...
blog.livedoor.jp/dreamisland1/archives/cat_50151941.html

2011/4/17(日) 午前 10:56ogw*og*2返信する

   

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棚田学会理事で「石垣を讃(たた)える会」の佐々木卓也代表世話人(56)が講師を務めた。日本の棚田百選に選ばれている井仁の棚田、空谷地区の石垣棚田、上殿地区の山県流石組景観などを見学した。地域の住民や石工職人たちの話も聞いた。

上殿地区にある宗玄寺石塁は、戦国時代の屋敷跡といわれる。佐々木さんは「中国地方、特に安芸太田町は石垣の博物館。伝統的な石組みは風化が少ない。技術の保全と継承をする必要がある」と説明した。参加者は写真を撮ったり、大きな石に手を当てたりしながら、約600年の歴史に思いをはせていた。

西区の主婦中本美由紀さん(62)は「何百年も崩れない石を積み上げた人間の知恵は素晴らしい。講師の詳しい説明を聞くと感動が膨らんだ」と喜んでいた。

「石垣を讃える会」は昨年11月、今回の箇所を含む20地区を「中国地方石垣百選」として認定した。9月までに5回、北広島町呉市島根県山口県などの地区も巡る予定。 (大江真)
http://blog.chugoku-np.co.jp/fureai23/

2011/4/17(日) 午前 11:01ogw*og*2返信する

   

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[PDF] -41- (1) 文 化 財 平成21年8月7日現在 国 宝 重 要 文 化 財 記 ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - クイック ビュー
塁(石垣)や横矢,石段は残存し,城門二棟と櫓一棟が. 素盞嗚神社に保存されている。 県史跡 宮 脇 石 器時代 遺 跡. 新市町常 品 治 別. 神 社. 縄文時代早期の遺跡として押型文土器,打製の細石器, ...... わをかえせ. 昭和38年. 8月. 峠三吉は自宅で被爆し焦. 土の中で青年運動を通じ. て文学活動を行った。 ...... 文化2年(1805)建立の鐘楼は,基礎の石組みに特徴があ. り,石土技術としては優れたものと言われる。 ...
www.kankou.pref.hiroshima.jp/dictionary/.../41-p80.pdf

2011/4/17(日) 午前 11:03ogw*og*2返信する

   

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歴歩
宮内庁は12日、「三吉(みつよし)陵墓参考地」として管理している、古墳時代中期(5 世紀)全長約200mの前方後円墳・新木山( .... その中の8点の圭形の石牌はきわめて貴重で、その中には「魏武王常所用挌虎大戟」「■常所用挌虎短矛」などの銘文があった。 ..... の基礎になる大規模な石組み など、大王墓にふさわしい内容が次々と明らかになり、考古学的にも継体陵の可能性が高まった。 ... その結果、石垣の石がほとんど抜き取られており、徳川家光によって行われた城の破壊が徹底的だったことが分かった。 ...
blog.goo.ne.jp/thetaoh/s/陵墓

2011/4/17(日) 午前 11:07ogw*og*2返信する

   

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全国の学術模型 - www.age.ai
大正12年から昭和3年にかけて、富山県高岡市の彫刻師初代十二町仁三吉氏が、宮城県石巻市の青沼紋之丞氏の依頼により .... 平成8年、ふるさと歴史館開館に合わせて製作されたもので、1/20模型。製作は地元の森田環境企画。 ..... この旧館の模型がニッセイライフプラザロビーに社章石組みとともに展示されている。外観だけの復元と思われるが、古色が ..... 実際の建物は博物館から歩いて10分ほどのところにあり、 外観が公開されている。石垣市内には宮良殿内のような赤瓦の民家が今もところどころに見られる。
www.age.ai/~craftman/kohkaishisetu.html -

2011/4/17(日) 午前 11:08ogw*og*2返信する

   

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八徳(はっとく)
儒教における八種の徳。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つを指す。

2011/4/17(日) 午前 11:20ogw*og*2返信する

   

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06散歩道
別名「扇城」と言い、本丸石垣、内堀は当時のまま残されており、水門より海水が入り潮の満干で水が増減する水城。 また、その石垣は黒田孝高が戦乱時に築いた堅牢な石組み と、その後細川忠興が築いた荒い石組みとの違いに歴史の一端がうかがえます。 ...
ww6.tiki.ne.jp/~chikushitei/06/06index.htm 

http://hmuseum.doshisha.ac.jp/html/articles/saga2/detail.asp?xml=saga20030115.xml

2011/4/17(日) 午前 11:38ogw*og*2返信する

   

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中世、三次盆地を支配した三吉氏代々の居城で、1591(天正19)年に三次町の比熊山城に移るまでの約400年間続きました。
標高410m、(麓からの高さ220m)の頂上からの眺望は素晴らしいものです。
今でも熊野神社の裏から本来の大手道を登ることができます。
本丸に相当する主郭は南北70m*東西40mで、石垣で組まれた門の跡や土塁も明確に残っています。
複雑に配置された郭は約50を数え、その一つには石組の半地下式の穴蔵跡もあります。
主郭の東の谷にある一画は埋門を構えて側面を堅固な石垣で築いており、相当な規模の建物があったことが想像されます。
http://2nd.geocities.jp/edenno3/miyosi/hiebi/hiebi.html

2011/4/17(日) 午前 11:45ogw*og*2返信する

   

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埋文センター現説資料 No.36
屋敷を巡る青石積みの水路1, 屋敷を巡る青石積みの水路2, 屋敷境とみられる石列と石組みの水路. 屋敷を巡る青石積みの水路 ... 石組は割石を用いた「布積み崩し」( 穴太積み)という横目地が一部通る高度な石積み技術で構築されています。 ...

http://www.google.com/url?sa=t&source=web&cd=16&ved=0CDUQFjAFOAo&url=http%3A%2F%2Fwww.tokushima-maibun.net%2Fkako%2Fnakatokushima1%2Fshousai.htm&ei=f1OqTaGLBI2wuAOSzZ2RCg&usg=AFQjCNGLV01GejBV7iUfV2W5e6Mivs1vNg

2011/4/17(日) 午前 11:50ogw*og*2返信する

   

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肥後の石工
肥後の石工集団は、高度な石組みの技術を用い各地に眼鏡橋を造り上げていき、またその技術は石橋のほかにも、河川工事や干拓など ... 肥後の石工の家系図や年表のページが、また、熊本のめがね橋の変遷を3つの時代と3人の石工に焦点を当て、コンパクトに ...
www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/.../isiku.html -

2011/4/17(日) 午前 11:52ogw*og*2返信する

   

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石大工と京石工の歴史 - 京都の石屋〔石茂〕芳村石材店
石大工は石工(いしく)とも言い、京都は京石工と呼びます。京石工は無論、古都京都の歴史的木造建築物の石仕事にも関わってきましたが、石工が商いとして町に定着し始めたのは、墓石や灯篭が庶民に普及し始めた江戸時代と言われています。 ...
www.kyoto-ishiya.com/architect/history.php

2011/4/17(日) 午前 11:55ogw*og*2返信する

   

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高遠石工と狛犬
信濃(長野)にあった小さな藩・高遠藩は、江戸時代中期に財政が逼迫するようになると、農家の次男以下に石工の技術を習得させ、出稼ぎ石工として各地に送り出すようになりました(高遠石工)。藩は出稼ぎ石工から厳しく運上金を取り立てたたのですが、石工の中には流れ着いた地に身を隠して住み着く者もいました。そんな中に多くの優れた狛犬を彫った小松利平(1809年?1893年)という石工がいました。彼は南福島に住みつき、多くの作品を残したと思わますが、脱藩者であったために台座に自分の名前を刻むことはありませんでした。
http://guardianlions.blogspot.com/2010/02/9.html

2011/4/17(日) 午前 11:57ogw*og*2返信する

   

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まみうだ石材の小松石: 010小松石の歴史
ここでは、小松石の歴史についてご紹介させて頂きます。 古くから日本人に愛されてきた小松石の歴史をご覧下さい. お客様の声 ... 1160年, 土屋格衛が岩村(現在の真鶴町)において、石材業を創業しました。 (真鶴町にある、石工先祖碑の碑文より) ...
www.mamiuda.jp/komatsuishi/archives/010/

2011/4/17(日) 午前 11:58ogw*og*2返信する

   

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日本の歴史
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/japankokogaku2.htm
自然石による石積み工法

http://www.tochigi-jari.net/stone_wall.htm

2011/4/17(日) 午後 0:26ogw*og*2返信する

   

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和暦-西暦対応表 

年号 西暦年 十干十二支 改元月日
慶長 1596 丙申 10.27
元和 1615 乙卯 7.13
寛永 1624 甲子 2.30
正保 1644 甲申 12.16
慶安 1648 戊子 2.15
承応 1652 壬辰 9.18
明暦 1655 乙未 4.13
万治 1658 戊戌 7.23
寛文 1661 辛丑 4.25
延宝 1673 癸丑 9.21
天和 1681 辛酉 9.29
貞享 1684 甲子 2.21
元禄 1688 戊辰 9.30
宝永 1704 甲申 3.13
正徳 1711 辛卯 4.25
享保 1716 丙申 6.22
元文 1736 丙辰 4.28
寛保 1741 辛酉 2.27
延享 1744 甲子 2.21
寛延 1748 戊辰 7.12
宝暦 1751 辛未 10.27
明和 1764 甲申 6.2
安永 1772 壬辰 11.16
天明 1781 辛丑 4.2
寛政 1789 己酉 1.25

2011/4/17(日) 午後 0:59ogw*og*2返信する

   

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享和 1801 辛酉 2.5
文化 1804 甲子 2.11
文政 1818 戊寅 4.22
天保 1830 庚寅 12.10
弘化 1844 甲辰 12.2
嘉永 1848 戊申 2.28
安政 1854 甲寅 11.27
万延 1860 庚申 3.18
文久 1861 辛酉 2.19
元治 1864 甲子 2.20
慶応 1865 乙丑 4.7
明治 1868 戊辰 9.8
大正 1912 壬子 7.30
昭和 1926 丙寅 12.25
平成 1989 己巳 1.8

2011/4/17(日) 午後 1:00ogw*og*2返信する

   

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十干十二支一覧 

1 甲子(キノエネ) 
2 乙丑(キノトウシ) 
3 丙寅(ヒノエトラ) 
4 丁卯(ヒノトウ) 
5 戊辰(ツチノエタツ) 
6 己巳(ツチノトミ) 
7 庚午(カノエウマ) 
8 辛未(カノトヒツジ) 
9 壬申(ミズノエサル) 
10 癸酉(ミズノトトリ) 
11 甲戌(キノエイヌ) 
12 乙亥(キノトイ) 
13 丙子(ヒノエネ) 
14 丁丑(ヒノトウシ) 
15 戊寅(ツチノエトラ) 
16 己卯(ツチノトウ) 
17 庚辰(カノエタツ) 
18 辛巳(カノトミ) 
19 壬午(ミズノエウマ) 
20 癸未(ミズノトヒツジ) 
21 甲申(キノエサル) 
22 乙酉(キノトトリ) 
23 丙戌(ヒノエイヌ) 
24 丁亥(キノエイ) 
25 戊子(ツチノエネ) 
26 己丑(ツチノトウシ) 
27 庚寅(カノエトラ) 
28 辛卯(カノトウ) 
29 壬辰(ミズノエタツ

2011/4/17(日) 午後 1:02ogw*og*2返信する

   

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30 癸巳(ミズノトミ) 
31 甲午(キノエウマ) 
32 乙未(キノトヒツジ) 
33 丙申(ヒノエサル) 
34 丁酉(ヒノトトリ) 
35 戊戌(ツチノエイヌ) 
36 己亥(ツチノトイ) 
37 庚子(カノエネ) 
38 辛丑(カノトウシ) 
39 壬寅(ミズノエトラ) 
40 癸卯(ミズノトウ) 
41 甲辰(キノエタツ) 
42 乙巳(キノトミ) 
43 丙午(ヒノエウマ) 
44 丁未(ヒノトヒツジ) 
45 戊申(ツチノエサル) 
46 己酉(ツチノトトリ) 
47 庚戌(カノエイヌ) 
48 辛亥(カノトイ) 
49 壬子(ミズノエネ)

2011/4/17(日) 午後 1:03ogw*og*2返信する

   

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50 癸丑(ミズノトウシ) 
51 甲寅(キノエトラ) 
52 乙卯(キノトウ) 
53 丙辰(ヒノエタツ) 
54 丁巳(ヒノトネ) 
55 戊午(ツチノエウマ) 
56 己未(ツチノトヒツジ) 
57 庚申(カノエサル) 
58 辛酉(カノトトリ) 
59 壬戌(ミズノエイヌ) 
60 癸亥(ミズノトイ) 

http://www.asahi-net.or.jp/~xn2m-fjst/wareki.html

2011/4/17(日) 午後 1:04ogw*og*2返信する

   

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西暦 年号 干支 改元月日 閏月 皇紀
1573 天正元年 癸酉 7月28日 2233
1574 天正2年 甲戌 11月 2234
1575 天正3年 乙亥 2235
1576 天正4年 丙子 2236
1577 天正5年 丁丑 7月 2237
1578 天正6年 戊寅 2238
1579 天正7年 己卯 2239

2011/4/17(日) 午後 1:14ogw*og*2返信する

   

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1580 天正8年 庚辰 3月 2240
1581 天正9年 辛巳 2241
1582 天正10年 壬午 2242
1583 天正11年 癸未 正月 2243
1584 天正12年 甲申 2244
1585 天正13年 乙酉 8月 2245
1586 天正14年 丙戌 2246
1587 天正15年 丁亥 2247
1588 天正16年 戊子 5月 2248
1589 天正17年 己丑 2249
1590 天正18年 庚寅 2250
1591 天正19年 辛卯 正月 2251 
1592 文禄元年 壬辰 12月8日 2252
1593 文禄2年 癸巳 9月 2253 
1594 文禄3年 甲午 2254
1595 文禄4年 乙未 2255
1596 慶長元年 丙申 10月27日 7月 2256

2011/4/17(日) 午後 1:14ogw*og*2返信する

   

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年 年(元号) 年 年(元号
1401 応永8年 1402 応永9年
1403 応永10年 1404 応永11年
1405 応永12年 1406 応永13年
1407 応永14年 1408 応永15年
1409 応永16年 1410 応永17年
1411 応永18年 1412 応永19年
1413 応永20年 1414 応永21年
1415 応永22年 1416 応永23年
1417 応永24年 1418 応永25年
1419 応永26年 1420 応永27年

2011/4/17(日) 午後 1:21ogw*og*2返信する

   

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1421 応永28年 1422 応永29年
1423 応永30年 1424 応永31年
1425 応永32年 1426 応永33年
1427 応永34年 1428 応永35年/正長元年
1429 正長2年/永享元年 1430 永享2年
1431 永享3年 1432 永享4年
1433 永享5年 1434 永享6年
1435 永享7年 1436 永享8年
1437 永享9年 1438 永享10年
1439 永享11年 1440 永享12年
1441 永享13年/嘉吉元年 1442 嘉吉2年
1443 嘉吉3年 1444 嘉吉4年/文安元年
1445 文安2年 1446 文安3年
1447 文安4年 1448 文安5年
1449 文安6年/宝徳元年 1450 宝徳2年

2011/4/17(日) 午後 1:22ogw*og*2返信する

   

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1451 宝徳3年 1452 宝徳4年/享徳元年
1453 享徳2年 1454 享徳3年
1455 享徳4年/康正元年 1456 康正2年
1457 康正3年/長禄元年 1458 長禄2年
1459 長禄3年 1460 長禄4年/寛正元年
1461 寛正2年 1462 寛正3年
1463 寛正4年 1464 寛正5年
1465 寛正6年 1466 寛正7年/文正元年
1467 文正2年/応仁元年 1468 応仁2年
1469 応仁3年/文明元年 1470 文明2年
1471 文明3年 1472 文明4年
1473 文明5年 1474 文明6年
1475 文明7年 1476 文明8年
1477 文明9年 1478 文明10年
1479 文明11年 1480 文明12年

2011/4/17(日) 午後 1:23ogw*og*2返信する

   

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1481 文明13年 1482 文明14年
1483 文明15年 1484 文明16年
1485 文明17年 1486 文明18年
1487 文明19年/長享元年 1488 長享2年
1489 長享3年/延徳元年 1490 延徳2年
1491 延徳3年 1492 延徳4年/明応元年
1493 明応2年 1494 明応3年
1495 明応4年 1496 明応5年
1497 明応6年 1498 明応7年
1499 明応8年 1500 明応9年
他の年代の目次へ

2011/4/17(日) 午後 1:24ogw*og*2返信する

   

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1501 明応10年/文亀元年 1502 文亀2年
1503 文亀3年 1504 文亀4年/永正元年
1505 永正2年 1506 永正3年
1507 永正4年 1508 永正5年
1509 永正6年 1510 永正7年
1511 永正8年 1512 永正9年
1513 永正10年 1514 永正11年
1515 永正12年 1516 永正13年
1517 永正14年 1518 永正15年
1519 永正16年 1520 永正17年
1521 永正18年/大永元年 1522 大永2年
1523 大永3年 1524 大永4年
1525 大永5年 1526 大永6年
1527 大永7年 1528 大永8年/享禄元年
1529 享禄2年 1530 享禄3年

2011/4/17(日) 午後 1:25ogw*og*2返信する

   

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1531 享禄4年 1532 享禄5年/天文元年
1533 天文2年 1534 天文3年
1535 天文4年 1536 天文5年
1537 天文6年 1538 天文7年
1539 天文8年 1540 天文9年
1541 天文10年 1542 天文11年
1543 天文12年 1544 天文13年
1545 天文14年 1546 天文15年
1547 天文16年 1548 天文17年
1549 天文18年 1550 天文19年
1551 天文20年 1552 天文21年
1553 天文22年 1554 天文23年
1555 天文24年/弘治元年 1556 弘治2年
1557 弘治3年 1558 弘治4年/永禄元年
1559 永禄2年 1560 永禄3年
1561 永禄4年 1562 永禄5年
1563 永禄6年 1564 永禄7年
1565 永禄8年 1566 永禄9年
1567 永禄10年 1568 永禄11年
1569 永禄12年 1570 永禄13年/元亀元年
1571 元亀2年 1572 元亀3年
1573 元亀4年/天正元年 1574

2011/4/17(日) 午後 1:27ogw*og*2返信する

   

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年 年(元号) 年 年(元号
1301 正安3年 1302 正安4年/乾元元年
1303 乾元2年/嘉元元年 1304 嘉元2年
1305 嘉元3年 1306 嘉元4年/徳治元年
1307 徳治2年 1308 徳治3年/延慶元年
1309 延慶2年 1310 延慶3年
1311 延慶4年/応長元年 1312 応長2年/正和元年
1313 正和2年 1314 正和3年
1315 正和4年 1316 正和5年
1317 正和6年/文保元年 1318 文保2年
1319 元応元年 1320 元応2年
1321 元応3年/元亨元年 1322 元亨2年
1323 元亨3年 1324 元亨4年/正中元年
1325 正中2年 1326 正中3年/嘉暦元年
1327 嘉暦2年 1328 嘉暦3年
1329 嘉暦4年/元徳元年 1330 元徳2年

2011/4/17(日) 午後 1:29ogw*og*2返信する

   

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1331 元徳3年/元弘元年(南朝) 1332 元徳4年/元弘2年(南朝)/
正慶元年(北朝)
1333 元弘3年(南朝)/正慶2年(北朝) 1334 元弘4年(南朝)/建武元年
1335 建武2年 1336 建武3年/延元元年(南朝)
1337 建武4年/延元2年(南朝) 1338 建武5年/延元3年(南朝)/
暦応元年(北朝)
1339 延元4年(南朝)/暦応2年(北朝) 1340 延元5年(南朝)/暦応3年(北朝)/
興国元年(南朝)
1341 暦応4年(北朝)/興国2年(南朝) 1342 暦応5年(北朝)/興国3年(南朝)/
康永元年(北朝)
1343 興国4年(南朝)/康永2年(北朝) 1344 興国5年(南朝)/康永3年(北朝)
1345 興国6年(南朝)/康永4年(北朝)/
貞和元年(北朝) 1346 興国7年(南朝)/貞和2年(北朝)/
正平元年(南朝)
1347 貞和3年(北朝)/正平2年(南朝) 1348 貞和4年(北朝)/正平3年(南朝)
1349 貞和5年(北朝)/正平4年(南朝) 1350 貞和6年(北朝)/正平5年(南朝)/

2011/4/17(日) 午後 1:31ogw*og*2返信する

   

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1351 正平6年(南朝)/観応2年(北朝) 1352 正平7年(南朝)/観応3年(北朝)/
文和元年(北朝)
1353 正平8年(南朝)/文和2年(北朝) 1354 正平9年(南朝)/文和3年(北朝)
1355 正平10年(南朝)/文和4年(北朝) 1356 正平11年(南朝)/文和5年(北朝)/
延文元年(北朝)
1357 正平12年(南朝)/延文2年(北朝) 1358 正平13年(南朝)/延文3年(北朝)
1359 正平14年(南朝)/延文4年(北朝) 1360 正平15年(南朝)/延文5年(北朝)

2011/4/17(日) 午後 1:33ogw*og*2返信する

   

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1361 正平16年(南朝)/延文6年(北朝)/
康安元年(北朝) 1362 正平17年(南朝)/康安2年(北朝)/
貞治元年(北朝)
1363 正平18年(南朝)/貞治2年(北朝) 1364 正平19年(南朝)/貞治3年(北朝)
1365 正平20年(南朝)/貞治4年(北朝) 1366 正平21年(南朝)/貞治5年(北朝)
1367 正平22年(南朝)/貞治6年(北朝) 1368 正平23年(南朝)/貞治7年(北朝)/
応安元年(北朝)
1369 正平24年(南朝)/応安2年(北朝) 1370 正平25年(南朝)/応安3年(北朝)/
建徳元年(南朝)

2011/4/17(日) 午後 1:35ogw*og*2返信する

   

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1371 応安4年(北朝)/建徳2年(南朝) 1372 応安5年(北朝)/建徳3年(南朝)/
文中元年(南朝)
1373 応安6年(北朝)/文中2年(南朝) 1374 応安7年(北朝)/文中3年(南朝)
1375 応安8年(北朝)/文中4年(南朝)/
永和元年(北朝)/天授元年(南朝) 1376 永和2年(北朝)/天授2年(南朝)
1377 永和3年(北朝)/天授3年(南朝) 1378 永和4年(北朝)/天授4年(南朝)
1379 永和5年(北朝)/天授5年(南朝)/
康暦元年(北朝) 1380 天授6年(南朝)/康暦2年(北朝)

2011/4/17(日) 午後 1:36ogw*og*2返信する

   

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1381 天授7年(南朝)/康暦3年(北朝)/
永徳元年(北朝)/弘和元年(南朝) 1382 永徳2年(北朝)/弘和2年(南朝)
1383 永徳3年(北朝)/弘和3年(南朝) 1384 永徳4年(北朝)/弘和4年(南朝)/
至徳元年(北朝)/元中元年(南朝)
1385 至徳2年(北朝)/元中2年(南朝) 1386 至徳3年(北朝)/元中3年(南朝)
1387 至徳4年(北朝)/元中4年(南朝)/
嘉慶元年(北朝) 1388 元中5年(南朝)/嘉慶2年(北朝)
1389 元中6年(南朝)/嘉慶3年(北朝)/
康応元年(北朝) 1390 元中7年(南朝)/康応2年(北朝)/
明徳元年(北朝)
1391 元中8年(南朝)/明徳2年(北朝) 1392 元中9年(南朝)/明徳3年(北朝)
1393 明徳4年(北朝) 1394 明徳5年(北朝)/応永元年
1395 応永2年 1396 応永3年
1397 応永4年 1398 応永5年
1399 応永6年 1400 応永7年

2011/4/17(日) 午後 1:36ogw*og*2返信する

   

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1101 康和3年 1102 康和4年
1103 康和5年 1104 康和6年/長治元年
1105 長治2年 1106 長治3年/嘉承元年
1107 嘉承2年 1108 嘉承3年/天仁元年
1109 天仁2年 1110 天仁3年/天永元年
1111 天永2年 1112 天永3年
1113 天永4年/永久元年 1114 永久2年
1115 永久3年 1116 永久4年
1117 永久5年 1118 永久6年/元永元年
1119 元永2年 1120 元永3年/保安元年
1121 保安2年 1122 保安3年
1123 保安4年 1124 保安5年/天治元年
1125 天治2年 1126 天治3年/大治元年
1127 大治2年 1128 大治3年
1129 大治4年 1130 大治5年
1131 大治6年/天承元年 1132 天承2年/長承元年
1133 長承2年 1134 長承3年
1135 長承4年/保延元年 1136 保延2年
1137 保延3年 1138 保延4年
1139 保延5年 1140 保延6年

2011/4/17(日) 午後 1:42ogw*og*2返信する

   

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拓本とその流転」

企画展示 特集陳列「拓本とその流転」 
平成館 企画展示室 2011年3月15日(火) ~ 2011年5月15日(日)

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1361

2011/5/8(日) 午前 6:39ogw*og*2返信する

   

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石干見研究ノート
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - クイック ビュー
田和正孝 著 - 関連記事
1 はじめに. 2 世界各地の石干見. 2.1 東アジアの石干見. 2.1.1 日本. 2.1.2 韓国. 2.1.3 台湾. 2.2 東南アジアの石干見 ... しかし,各地の石干見の状況. はこれまで1枚の地図上で概要が示されたり(藪内 1962),個別の石干見研究のなか ...
http://ir.minpaku.ac.jp/dspace/bitstream/10502/3248/1/KH_027_1_005.pdf

2011/5/21(土) 午前 9:24ogw*og*2返信する

   

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さく良川
三椏

薄手
仮名用
にじみ極少

Y435(668)/60

2011/9/9(金) 午後 2:49ogw*og*2返信する

   

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[PDF] 
文理融合型文化財修復科学の確立を目指した 紙文化財修復 ... - 江前 敏晴
www.enomae.com/.../JSPS_Fund_SciRes(B)19300296Reprt_ ...
ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
アンケート用紙.................................................................................................20. 2-5. ... 設問 4 クリーニング(及び裏打ち除去)工程後の乾燥について. ... 設問 6 裏打ちはどのように行いますか。 ..... 欧米では 1800 年代半ばから紙の繊維原料として木材パルプが普及し、はっ水 .... 紙は繊維間の水素結合によりその構造が保たれているが、紙を水 ...

2011/9/9(金) 午後 3:13ogw*og*2返信する

   

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美栖紙(みすがみ)

どのような形式にすべきかは江戸時代以前に決まっていました。
http://akiruno.town-info.com/units/36232/0571mbunsindou/

掛け軸の仕組み
http://www.eonet.ne.jp/~saiundo/sikkumi.html

2011/9/9(金) 午後 3:37ogw*og*2返信する

   

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http://blogs.yahoo.co.jp/hkjbjp/62721846.html

2011/10/1(土) 午前 7:02ogw*og*2返信する

   

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和書画像の公開者と画像の所在
http://members.jcom.home.ne.jp/uchida.m/sub1.html

2011/10/1(土) 午後 0:40ogw*og*2返信する

   

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上質な手漉きの宣紙
西安の碑林博物館
http://www.xian-net.jp/page/s01.htm削除

2011/10/9(日) 午後 1:49ogw*og*3 ]返信する

   

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文人連盟では、会員の募集をしています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~gajigaji/bunjin.htm削除

2011/10/9(日) 午後 7:07ogw*og*3 ]返信する

   

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天城山隧道」の説明板。トンネルは明治38年開通。切り石巻工法で施行されその石は大仁町の吉田石が使われたという。長さ:445.5m、幅員4.1m、高さ3.5mで標高は708.7m。

http://hiki0506.jugem.jp/?month=201108削除

2011/12/4(日) 午前 5:40ogw*og*3 ]返信する

   

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No.1 「擦拓について」
拓本をとる方法に「擦拓」がある。拓本をとる対象物に、水で湿らした紙を密着させると、刻された文字の部分が食い込む。この状態で、毛氈を木の棒に巻き、墨を染みこませて表面を擦ると、食い込んでいる文字の部分には墨が乗らず、白い文字が浮かび上がる。図版に示したものは擦拓による集字聖教序である。

http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/index.htm

2011/12/15(木) 午前 5:55ATS ]返信する

   

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1900年頃、敦煌莫高窟から太宗皇帝「温泉銘」の拓本が出土した。末尾に「永徽四年八月」(西暦653年)と記されており、唐時代初期以前に拓されたことが知られる。この拓本は「擦拓」によるものであった。また、同時に出土した欧陽詢の「化度寺碑」、柳公権の「金剛経」の拓本も「擦拓」によるものであった。
「擦拓」は拓法として唐時代には確立し、宋時代以降も多く用いられている。採拓時間は短く、多くの拓を取ることのできる技法は、印刷技術の一として位置づけられ、多くの人に求められたであろう。参考に集字聖教序の擦拓を紹介する。
なお、「擦拓」は対象物の表面が平坦で滑らかでなければ拓すことができない。摩崖に刻されたものなどは「撲拓」によらねばならない。
http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/index.htm

2011/12/15(木) 午前 5:57ATS ]返信する

   

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24代仁賢の娘手白香皇女が、継体天皇に嫁いでその子欽明天皇が継いでいるところが女系で皇位継承がされています。
継体天皇は、応神天皇の子孫ということで、ムリに男系としていますが、ここは実質的に女系で皇位継承がされています。
女系で継承しようとしたところは、飯豊天皇の場合、すぐに亡くなってしまい、後に天皇として抹殺されたために女系での継承となりませんでした。
光仁天皇は、聖武天皇の娘井上内親王を妻としており、二人の間の子他戸親王を皇太子とするという女系での継承が意図され、天皇となりましたが、光仁天皇の別の子である桓武天皇のクーデター(実質)により、女系での継承はなりませんでした。

女系とまで言い切れませんが、119代光格天皇が、天皇になれたのは、後桃園天皇の娘である欣子内親王を妻としたからです。
(120代仁考天皇は、欣子内親王の子ではないため、女系とはしませんでした。)

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6618123.html?pg=2

2012/3/29(木) 午前 6:23ogw*og*2返信する

   

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ちょっと待ってください、天皇は一貫して男系を守ってきたのではないのでしょうか?
今上天皇の時点で「すでに男系は保たれていない」と言うことなのでしょうか?

2012/3/29(木) 午前 6:25ogw*og*2返信する

   

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No.6
回答者:bilda 回答日時:2011/03/25 14:55 


遺伝と生殖 ~ 生物としての男女は平等でありえない ~ 

伝統・慣習・法律・差別によらず、男と女は遺伝的に違いがあります。
たとえば色盲の遺伝子は、多く女性の卵子によって受けつがれますが、
女子が色盲になることは稀で、ほとんど男子に発現(顕性遺伝)します。

もちろん、母親そっくりの男の子や、父親そっくりの女の子も少なく
ありませんが、やはり父親そっくりの男の子が、誰の目にも似ています。
その他の形質(性格や体質など)も、男子だけに現われやすいのです。

2012/3/29(木) 午前 6:26ogw*og*2返信する

   

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西洋の王族の遺伝子が連続していない、という巷説・俗説はさておき、
古来、クレオパトラ卑弥呼のように、著名な女王の例はありますが、
数百年にわたって何十代も続いた記録はありません。

以上は、男子限定の万世一系を原則とした理由であり、もしも国民の
総意が男女平等に向かうなら、皇室典範の一部を修正すればいいのです。
それには、つぎの手順で成立するはずです。

国会議員が提案し、内閣が皇室会議を召集、国民投票を議決する……。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6606344.html (No.10)
皇室会議;以下の10人(2+1+2+2+2+1)が召集される。

2012/3/29(木) 午前 6:28ogw*og*2返信する

   

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法律で女系容認が定められたら、女系反対論者はどのようにするのですかね。

共産党のように、天皇陛下が出席する国会の開会日に欠席するぐらいならいいのですが、
テロでも起こさなければいいのですが。

2012/3/29(木) 午前 6:29ogw*og*2返信する

   

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No.7
回答者:469437 回答日時:2011/03/25 16:21 

No2です。なにやら、男系と天皇についての歴史にも定義にも無知な方がまた来ているようです。
女系に皇位継承権を与える事は、法律の変更によって可能でも、男系女系の定義を変えることはできない筈ですが。

前回の回答の補足ですが、
男系とは、父親の系譜を辿ると男性天皇にたどり着くということで、その先祖の男性天皇のどの妻(&側室)から生まれたかは、問題になりません。
女性天皇にぶつかった場合は、そこで王朝交代が起ったことになり、その新王朝の歴史はそこからスタートということになります。
実際、他国の「王室」の「王朝」それによる交代を繰り返しています。

2012/3/29(木) 午前 6:31ogw*og*2返信する

   

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この問題では、よく継体天皇の件が出てきます。
系図では継体天皇応神天皇の5代の孫(男系)となっており、それが否定できない限り、皇統の男系も否定できません。
歴史上、皇族間の婚姻は、頻繁に行われており、それを以って実質的に女系に移ったとする考えは理解できません。

皇族の男女が結婚した=女系になった ではありません。

飯豊天皇については、はたして天皇だったのか?という問題もある上に、彼女の子孫は皇位についておらず、彼女が抹殺されたという証拠もありません。なので、天皇であったとしても「女性天皇」に過ぎないと思います。

飯豊青皇女

2012/3/29(木) 午前 6:33ogw*og*2返信する

   

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飯豊青皇女
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%


光仁天皇天智天皇の孫(男系)でこれも、皇族同士での結婚をしただけで、女系ではありません。
光各天皇も皇族間の婚姻にすぎないので、同様です。
仁孝天皇光格天皇の皇子であるので、少しでも女系かもしれない?と考える事体が愚かです。

光仁天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%
光格天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%
仁孝天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AD%9D%

2012/3/29(木) 午前 6:34ogw*og*2返信する

   

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女系を採用するということは、男系女系どちらも認めるということで、男系の廃止ではありません。
そんなことをしたら、将来、男の皇子ばかりになった場合、今と全く同じ問題が起ります。
女系の問題とは、それによって王朝の交代が起るからです。
日本の場合、歴史が長い上に、天皇の権威は神話に結びついたものである以上、血統が影響するからです。

皇統の男系の問題とは、以上の理由により、日本の文化と伝統に関わる問題であって、単に性別による区別や差別とは違う次元の問題であり、従ってDNAによるアプローチでは、問題の本質は解決できず、語ることすらできません。

2012/3/29(木) 午前 6:36ogw*og*2返信する

   

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>質問文から、質問者様は「女性天皇」と「女系天皇」を混同しているように思えます。

一応理解しているつもりなのですが?

悠仁親王が男子に恵まれれば、男系が保たれますが、女子しかもうけられなかった場合、おそらく悠仁親王の女子が悠仁親王の後の天皇になるでしょう、その天皇とは「男系の女性天皇」です。

ここまでは、女系天皇否定論者といえども問題視しないでしょう。

問題となるのは、その「男系の女性天皇」が崩御したあとです。
「男系の女性天皇」のお子様は、男子であっても「女系の男性天皇」と言うことになるので、
女系天皇否定論者からすれば、皇統断絶と言うことになるのでしょう。

2012/3/29(木) 午前 6:37ogw*og*2返信する

   

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>日本の皇位継承は、基本は男性優先で、男系の「女性天皇」はいましたが「女系天皇」はいません。
ということで、全く例がない以上、「伝統」にもなっていませんし、偶然でもありません。

言い方が悪かったかもしれません。確かに皇統につきましては前例がないので、伝統にはなっておりません。
しかし、悠仁親王が誕生されるまで40年の永きにわたり、親王が誕生せず、現時点では次世代の親王悠仁殿下しかおられず、不吉なことを言うべきではないのですが、高円宮殿下のように悠仁親王薨去してしまっては、次世代の親王が不在と言うのは史上空前のことであり、今まで男系を保てたのも、将来的な男系維持の危機も「偶然」なのではないでしょうか?

伝統にはなってはいないのは分かるのですが、史上初の男系の皇統が途絶えることを想定した場合、どのようにすべきかと言うことを、日本国の伝統と照らし合わせて考えるのが筋ではないかと思います。

2012/3/29(木) 午前 6:38ogw*og*2返信する

   

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No.3様の話では、商家では婿養子をもらうと言うのが一般的だったみたいですが、469437様も「天皇以外は「男系優先・女系容認」」というのはお認めですよね。

469437様は「皇統の存続のシステムは天皇以外の日本の伝統的なシステムとは異なる」、と考えておいでなのでしょうが、
わたしは、天皇以外の「男系がだめなら女系で保つ」という伝統を、皇統の場合も当てはめるべきなのかと思います。

2012/3/29(木) 午前 6:39ogw*og*2返信する

   

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明治天皇の玄孫の竹田恒泰氏も
「一般の資産家や旧財閥においても、女性のみの場合は婿養子をとり家系を維持することもあります。」についてですが、そのような家柄においても、婿養子を取るというのは、できれば避けたい選択肢であり、積極的に男子を得ようと努力しているのもまた事実です。特に伝統芸能や、老舗の旅館などは顕著でしょう。そしてそのように悩んでいる姿もまた不自然ではありません。つまり、男系継承というのは、現在の社会の姿であるということです。民間の家であれば、いざとなれば婿養子でよいですが、皇室の場合は、それ以上に厳格に捉えているということです。男系継承できたほうが良いことは明白であり、万策尽きない限り、女系を認めるべきではありません。ただし、本当に万策が尽きたなら、女系を認めるのは致し方ないでしょう。まだ万策は尽きていませんので、女系を論じるべきではないと断言します。
http://blogs.yahoo.co.jp/takebom1024/25798040.html

2012/3/29(木) 午前 6:40ogw*og*2返信する

   

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No.8
回答者:469437 回答日時:2011/03/25 18:53 

No2、7です。返信についてですが、
私が回答したのは、
1:皇位の男系による継承は日本の伝統か?
2:男系が伝統である理由は何か?(女系の問題とは何か?)
3:天皇とそれ以外では、どのような違いがあるか。

であって、未来における男系の継承者の不在への対応について、語ったつもりはありません。
質問者様もそれについては質問していないと思いますが。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6618123.html?pg=1

2012/3/29(木) 午前 6:43ogw*og*2返信する

   

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>今まで男系を保てたのも、将来的な男系維持の危機も「偶然」なのではないでしょうか?

偶然ではないと思います。
理由は、少なくとも明治以前は、側室制度があり、正室に男子がいない場合の保険として機能していましたし、
宮家の数も現在より多く、それらも男系のストックになっていました。
また、女系容認の他国でも、側室や寵姫による継承者数の確保(=断絶の防止)は認められています。
以上から、男系を維持する為の努力はされている以上、偶然という評価はできません。その結果として女系天皇が誕生していない以上、天皇家における男系は伝統とみなして問題はないと思います。

2012/3/29(木) 午前 6:58ogw*og*2返信する

   

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>No.3様の話では、商家では婿養子をもらうと言うのが一般的だったみたいですが、469437様も「天皇以外は「男系優先・女系容認」」というのはお認めですよね

確かに認めていますが、私はNo2で、皇室以外では、男系女系以前に「イエ」の存続が重要視されるとお話し、それらと皇室の血統との違いも説明しています。
女子すらいない家では、他家から血縁のない養子を貰って、相続すると言うことも行われています。
私の考えでは、それらは伝統というより、目的の為の方法・手段として考えるべきもので、とどのつまり何でもありと変わりません(実際そうですが)、これを「伝統」と称してよいのか疑問を感じます。
また、女系に比例して外戚も増えることになり、外戚間の派閥が発生するのは好ましくありません。
天皇の男系は、確立の過程において、このことも考慮されていると思います。
更に、王朝交代でも血統は維持されるとはいえ、日本の天皇のみが有している祭祀王としての正当性は薄れていくと思います。これは伝統(神話)との乖離を意味するもので、可能なかぎり避けるべきだと思います。

2012/3/29(木) 午前 6:59ogw*og*2返信する

   

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>今まで男系を保てたのも、将来的な男系維持の危機も「偶然」なのではないでしょうか?

違うと思います。現在の皇室の男性継承者不足は、これらの側室というものが社会道徳上の理由から不可能になった上に、GHQによって宮家が減らされたという事に起因しています。
竹田家についても、戦前戦中の基準であれば、宮家として存続した筈です。
である以上、日本政府・国民が、起り得る問題への対処を怠ってきた結果として生じた必然であると思います。


>469437様は悠仁親王が男子に恵まれなかったときは、皇統の断絶により共和制への移行をすべきだとお考えなのでしょうか?

その時点で旧宮家の復活がなされなかったという前提で回答します。
私は、男系維持の為に、可能な限りの努力はするべきであり、その上で仕方がない場合のみ、女系の選択も止む終えないという立場です。
共和制には、絶対反対です。

2012/3/29(木) 午前 7:00ogw*og*2返信する

   

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>宮家の数も現在より多く、それらも男系のストックになっていました。
GHQによって宮家が減らされたという事に起因しています。
>その時点で旧宮家の復活がなされなかったという前提で回答します。

宮家とは何なのか分からないのですが、今回のような天皇の継承問題を考える上で必要な知識なのでしょうか?
私は宮家とは何なのかが分からない状態で質問しております。

私の言った「今まで男系を保てたのも、将来的な男系維持の危機も「偶然」なのではないでしょうか?」ですが、側室制度の影響が大きいと思うようになりましたので、私の意見を撤回します。

2012/3/29(木) 午前 7:01ogw*og*2返信する

   

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皇室以外では、男系女系以前に「イエ」の存続が重要視されるとお話し、それらと皇室の血統との違いですが、やはり、この点につきましては私としては皇統もイエの存続と同じようなシステムで存続すべきだと考えます。なぜなら、今までは側室がいて、男系が途絶えるというケースが想定されないまま皇統が存続してきて、側室制度がなくなるという制度の変更と40年も親王が誕生しないと言う偶然が重なって、皇統が2000年以上続いた後に今まで想定し得なかった男系断絶の可能性が浮上してきたから問題になったのであり、この前代未聞のケースについては日本の伝統を参考にすべきと考えます。イエの存続は、最初は男系の血筋にこだわり、男系の血筋が保てなければ女系の血筋に頼ると言うことになります。このイエの存続と皇統の存続も同じ要に考えればいいのに、逆に何ゆえ「血統は男系に限る」などという主張が出てくるのでしょうか?「血統は男系に限る」という考えは日本の歴史上、なかったのではないでしょうか?

2012/3/29(木) 午前 7:03ogw*og*2返信する

   

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>私は、男系維持の為に、可能な限りの努力はするべきであり、その上で仕方がない場合のみ、女系の選択も止む終えないという立場です。

ちょっと待ってください、それだと私の考え、つまり「男系優先・女系容認」と一緒ということですよね。

いままでのご回答からは、私とは異なる意見をお持ちと推察したのですが?

2012/3/29(木) 午前 7:03ogw*og*2返信する

   

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のんべい詩人の李白


百壺とは「李白」の漢詩に出てくる「のんべい賛歌」に出てくる言葉。

滌蕩千古愁 滌蕩す千古の愁
留連百壺飮 留連す百壺の飮。
良宵?さ甲漫 [評?¡?っ未傍垢靴¯
皓月未能寢 皓月 未だ寢る能はず。
醉來空臥山 醉ひ來つて空山に臥すれば
天地卽衾枕 天地は卽ち衾枕。
李白 友人會宿 ) 

簡単に訳せば

友人と共に宿る。千古の昔からの愁いを、洗い流すかのように、
一緒に居すわって、百壷もの酒を飲みつづける。

こんなにすばらしい夜は、濁り酒飲んで昔からの清談するのがふさわしい。
白く輝く月光のもと、まだとても寝る気にはなれないのだ。
すっかり酔っ払って、人気のない山中に寝そべれば、天と地がそのまま、布団と枕だ。

要するに球団名は「のんべいの集まり」ということである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kanto2002kanto/3484248.html

2012/4/17(火) 午後 3:04ogw*og*2返信する

   

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百壺とは「李白」の漢詩に出てくる「のんべい賛歌」に出てくる言葉。

http://blogs.yahoo.co.jp/kanto2002kanto/3484248.html

2012/4/17(火) 午後 3:09ogw*og*2返信する

   

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2.岩野原遺跡中期集落
http://daichinokai.sakura.ne.jp/oitatchi/36/oitatchi36_1.html

縄文模様
http://daichinokai.sakura.ne.jp/oitatchi/36/oitatchi36_2.html

「人体尺」を基にした「肘」(肘から中指の先 まで)の長さ35cmを縄文尺の基としていた らしいと。例の縄文ブームの先駆者となった、 あの青森の三内丸山遺跡の巨大木柱遺構での 6本柱の柱穴の配置の等間隔も、柱の高さもほ ぼ縄文尺(35cm)の倍数であるらしい。

2012/10/19(金) 午前 7:45ogw*og*2返信する

   

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湖底に沈む「奥三面縄文遺跡群」見学記
http://daichinokai.sakura.ne.jp/oitatchi/35/oitatchi35_4.html

2012/10/19(金) 午前 7:59ogw*og*2返信する

   

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四度の輪廻
、拓本
http://www.takuhon.com/hitori1.html

2012/10/24(水) 午後 1:42ogw*og*2返信する

   

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夏秋独り言 43 拓本の効果に就いて・・・柳 宗悦

http://www.takuhon.com/hitori2.html
http://www.takuhon.com/hitori1.html

2012/10/24(水) 午後 5:51ogw*og*2返信する

   

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Photo:20110622
元禄11年9月15日:
石仏

為秋光妙徳信**之

2014/4/8(火) 午後 0:40ogw*og*2返信する

   

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いつもと異なる筆運び / 書家 紫舟(ししゅう)
www.e-sisyu.com/news/blog/2013/06/post-137.html
2013.06.21いつもと異なる筆運び. こんな線を描いています。 0621_1.jpg. 枝です。 いつもとは異なる筆運び。 書のように上から下に線を引くのではなく 逆に下から上へと筆を運んできます。 0621_4.jpg. 筆に心地よいひっかっかりを感じつつ グググゥッっと。

2014/5/27(火) 午前 6:16ogw*og*2返信する

   

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蘭山禅師詩 , 四季詠詩

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/valuable_m/001051194593/9-23k.html

2014/5/27(火) 午後 4:06ogw*og*2返信する

   

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茨城県立図書館デジタルライブラリー

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/digital_lib_main.html

2014/5/27(火) 午後 8:28ogw*og*2返信する

   

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内容:1 一寸考え候 2 加州預りの事 3 又々公辺にても 4 序々承り申し候 5 別紙の儀については 6 尚々本文の義 7 十郎麿義 8 感応等の義 9 先日一橋 10 御用の義 11 当8月海岸防御の義 12 学校建立の節 13 別紙極内々 14 松肥始め 15 只今申し聞かせ 16 先日尾州殿より 17 鎗のあるなしの節 18 見取図

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/valuable_m/001051356325/23_17_retukouiboku.html

2014/5/27(火) 午後 8:30ogw*og*2返信する

   

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烈公書翰〕 , のり姫宛 / レッコウ ショカン , ノリヒメ アテ

http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/digital_lib/valuable_m/001051356333/23_18_norihime.html

2014/5/27(火) 午後 8:34ogw*og*2返信する

   

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不慮の死を遂げたという事情もあってか、信長本人が書いたと判断できる書状はほとんど現在に伝わりません。

http://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/blog/201306/uid000067_20130611172535bbda7ee2.jpg


http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2013/06/12/特別展「和様の書」鑑賞編1/削除

2014/6/3(火) 午前 8:06ogw*og*3 ]返信する

   

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相州(そうしゅう)

相模国さがみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/相模国削除

2014/6/3(火) 午前 8:15ogw*og*3 ]返信する

   

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何故、太古日本の神代文字は、学校で教えてもらえないのか?その① 
テーマ:Japan 古神道・かんながら

今回の内容は、我々が義務教育で教わる「歴史」の授業の中で“日本語の成り立ち”を大きく覆すものです。


http://ameblo.jp/kamiyonokioku/entry-11731050071.html

2014/6/10(火) 午前 11:44ogw*og*2返信する

   

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雨ん中
草刈りカートで
らんらんと


早朝に
草刈りカートで
爆走か


60記念
積年の功も
露ときゆ


7時頃とは、歴代担当者では異例つくめだ。
これでは、しょうがい担当が忙しい。

その異常さは、数本の枯れた松が象徴しているかのようだ。

これが、単なる個人の現象であって欲しいものだ。

2014/8/12(火) 午前 7:41ATS ]返信する

   

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自力救済措置は許されない?日本さてどうする。

通報だけでは、救済されないケースが増えている。

今日の番組では、店の万引き犯の防犯カメラの映像公開は逆に違法を問われる。!

2014/8/12(火) 午前 8:58ATS ]返信する

   

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漢字が捻じ曲げられたことを誰も教えてはくれない

http://manapedia.jp/text/index?text_id=1486

2014/12/17(水) 午後 3:54ATS ]返信する

   

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城メモ

https://kojodan.jp/castle/memo/archives/highlight/削除

2018/4/15(日) 午前 7:56ogw*og*3 ]返信する

   

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東寺百合文書

東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)は、京都の東寺に伝えられた日本中世の古文書で、現在は京都府立京都学・歴彩館(旧京都府立総合資料館)が所蔵しています。 8世紀から18世紀までの約1千年間にわたる膨大な量の古文書群で、その数はおよそ2万5千通に及びます。


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2605582削除

2019/2/23(土) 午前 7:06ogw*og*3 ]返信する

   

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38. 諸州古文書
しょしゅうこもんじょ
駿河国内の古文書調査に続いて、元文5年(1740)から寛保2年(1742)まで、三河遠江・伊豆・相模・武蔵・甲斐・信濃の7か国で古文書の調査が行われました。

『諸州古文書』は、調査の結果、重要とされた古文書を模写して国別に編集した古文書集。担当者は『判物証文写』と同じく青木昆陽で、青木は、天領(幕府領)と私領を問わず各地に散在する古文書を捜索し、吉宗の指示で模写した古文書を26巻に編集しました。『判物証文写』同様、吉宗の命で実施された古文書採集の成果である本書は、今日でも貴重な歴史資料として利用されています。全23冊。

(請求番号:159-0218)

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/38.html削除

2019/2/23(土) 午前 7:36ogw*og*3 ]返信する

 

 

 

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2011/9/11(日) 午後 5:23 [ CQF ]

  
徒然草:鶴見大学図書館トップ > 図書館貴重資料の紹介

徒然草:鶴見大学図書館トップ 図書館貴重資料の紹介 ・徒然草 / [吉田兼好著]||ツレズレグサ    [伝明融筆], [室町時代末期] 2冊 ; 25.6cm 紅梅文庫の印記あり       914.45/Y/1 1223863 徒然草 1 . 書庫 貴重 .       914.45/Y/2 1223864 徒然草 2 . 書庫 貴重 . http://library.tsurumi-u.ac.jp/library/Digital/tsureduregusa

2011/9/12(月) 午前 6:15 [ CQF ]

  
TO:トヨタ博物館累計来館者500万人突破:NJ110812p7

TO:トヨタ博物館累計来館者500万人突破:NJ110812p7...

2011/9/20(火) 午前 9:55 [ 車QF ]

  
絵草子屋の正八(えぞうしや の しょうはち)

絵草子屋の正八(えぞうしや の しょうはち) http://ja.wikipedia.org/wiki/正八 えぞうし問屋 地本問屋 永寿堂 西村屋与八、馬喰町二丁目角 柳亭種彦作、葛飾北嵩画:『鱸庖丁青砥切味』(1811)(合巻) 柳亭種彦作・歌川国貞画:『正本製』(1815 - 1831)(合巻) 為永春水作・春川英笑画:『腹内窺機関』(1826)(合巻) 為永春水作・柳川重山画:『梅花春水』(1826)(読本) 葛飾北斎:『冨嶽三十六景』(1830頃 - )(浮世

2011/9/23(金) 午前 6:47 [ CQF ]

  
大分市今市:道後今市(いま野津原町:今市:今市:江戸時代:越生:

大分市今市:道後今市(いま野津原町:今市:今市:江戸時代:越生: 江戸時代の面影を残す 大分市今市の石畳道路 http://www.iju-oita.jp/modules/bulletin2/index.php?page=article&storyid=1233 昭和の中期までは通称では「 道後今市」と呼ばれたが、今日では日本国中と同様に現代風に改められて「道後町二丁目」となっている。 http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/ni

2011/9/25(日) 午後 7:11 [ CQF ]

  
まちば:イチバとも マチバ、あるいは村方にたいする町方:マツバ:

まちば:イチバとも マチバ、あるいは村方にたいする町方 :マツバ: 日本的集落の構成原理 www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sanoda2.html - キャッシュ それは、大人になって一度確かに読んだはずなのに、今また改めて通読すると、 いまさらに柳田の先見的洞察の鋭さと確かさに驚か ... 私領の荘園ごとに自立してきた地方経済に沿って自ずから成立した交易の市ないし市場を起源とするコミュニティのことである。 ... の集落に古く「市」を示す地名が

2011/9/26(月) 午前 0:23 [ CQF ]

  
こま本郷:「高麗本郷の山とは日和田山のことでしょうか、」権田:石碑

こま本郷:「高麗本郷の山とは日和田山のことでしょうか、」権田:石碑 http://homepage2.nifty.com/koma/History1.html...

2011/9/27(火) 午前 5:15 [ CQF ]

  
伊勢物語:三芳野神社の石碑:わが方によると鳴くなるみよし野の田の面の雁をいつか忘れん

伊勢物語:三芳野神社の石碑:わが方によると鳴くなるみよし野の田の面の雁をいつか忘れん 写真を撮ってきましたのでアップ予定 わが方によると鳴くなる みよし野の田の面の雁を いつか忘れん 石碑の文字は 「 我が方によると鳴くなる  三芳野の田の面の雁を  いつかわすれむ 」 とある。...

2011/10/2(日) 午前 10:12 [ CQF ]

  
懸魚(げぎょ)垂魚:の造詣

懸魚(げぎょ)垂魚:の造詣 懸魚(げぎょ)とは、破風板の下に取り付けられる装飾を目的に付けられる彫刻を施した板のことである。「掛魚」とも書く。読みは、「げぎょ」というが「けんぎょ」と読むこともある[1]。発祥地と考えられている中国では垂魚とも呼ばれている。 破風板の合掌(頂点に当たる部分)に拝懸魚(おがみげぎょ)、桁の突出する場所に降懸魚(くだりげぎょ)が用いられる。 唐破風には兎の毛通し(うのけどおし・唐破風懸魚ともいう。)が付けられる。板の中央付近に四葉(しよう)や六葉(ろ

2011/10/3(月) 午前 10:18 [ 車QF ]

  
ウーン:庚申青面金剛:合掌:邪鬼:猿目耳口:日輪弓月鉾箭

ウーン:庚申青面金剛:合掌:邪鬼:猿目耳口:日輪弓月鉾箭 庚申塔の分類が某所では  板碑型 駒型 唐破風付型 舟形光背型 角丸箱型 山状角柱型 などと分類されている。他にもあるのだろうが、順次サーチしておきたい。 庚申青面金剛と文字のみと、像が刻まれているものがある 合掌(合掌でない表現もある) 猿の配置に違いがある このほかに、道しるべが彫刻されているものもあるので、往時と現在の位置関係を興味ある方は 調べて紹介下さるとありがたい。 庚申塔

2011/10/8(土) 午前 6:10 [ CQF ]

  
馬頭観音:三面六臂像:武州高麗郡藤金村:安永5年丙申年吉日:馬頭印

馬頭観音:三面六臂像:武州高麗郡藤金村:安永5年丙申年吉日:馬頭印 N35-55-50E139-24-18...

2011/10/14(金) 午後 4:15 [ CQF ]

  
蔵原 惟郭

大國天由来蔵原惟郭誠内堅森吉書[]加藤清正肥后國熊本城 http://ja.wikipedia.org/wiki/蔵原惟郭 蔵原 惟郭(くらはら これひろ、文久元年7月6日(1861年8月11日) - 昭和24年(1949年)1月8日)は肥後国熊本県)出身の政治家、教育家。衆議院議員立憲同志会)、熊本英学校校長。Ph.D....

2011/10/15(土) 午前 8:08 [ CQF ]

  
金石文(きんせきぶん)

金石文(きんせきぶん)は、金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指す。土器や甲骨などの類に刻まれたものを含む場合もある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/金石文...

2011/10/17(月) 午前 0:56 [ CQF ]

  
天海大僧正諡号は慈眼大師:開山免許状:

天海大僧正諡号慈眼大師:開山免許状: http://ja.wikipedia.org/wiki/天海 天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号慈眼大師徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。...

2011/10/17(月) 午前 11:43 [ CQF ]

  
ネットで見られる古筆・写本(e-国宝)

ネットで見られる古筆・写本(e-国宝) 古典文学電子テキスト検索にはe-国宝のリンクが含まれる。 e-国宝は国立博物館所蔵の国宝・重要文化財の画像が見られるサイトである。非常によくできていて、全画面表示や拡大縮小が自在にできるようになっている。モニターいっぱいにして、最大に拡大すると、書いた人の息遣いまで伝わってくるようだ。 例えば古本説話集なんて、僕はモノクロの影印本でしか見たことがなかった。拡大してみると「アレ?古本説話集ってこんなに上手かったっけ?」という感じだ。写本や古

2011/10/20(木) 午後 5:44 [ CQF ]

  
句碑

句碑...

2011/10/24(月) 午後 0:33 [ 車QF ]

  
拓本体験

拓本体験 [PDF] だ より www.niigata-ctc.or.jp/shokai/center-dayori/data/007.pdf ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat - HTMLバージョン 2011年4月1日 – 良. 寛ゆかりの国上山と桜並木が描く. 見事な景観は、わたしたちの心を. 癒してくれます。 4月1日には、桜並木沿いに新. たな桜スポット「大河津分水さく. ら公園」がオープンします ... のビジターセンターでも、. 良寛歌...

2011/11/4(金) 午前 8:13 [ CQF ]

  
良寛 足跡

良寛 足跡...

2011/11/4(金) 午前 9:22 [ CQF ]

  
拓本:石碑:歌碑:自筆癖:彫し癖:時代の傾向:

拓本:石碑:歌碑:自筆癖:彫し癖:時代の傾向: 古い文字を眺めると、難題の連続だ。 それが、人知れず埋もれかかった路傍の石碑となると猫に小判状態なのだろう。 その石碑が小判か、ただの石となるのかは、それを残した方々の思いが通じるか否かなのだろう。  文字が判別できない!自筆であればそこに癖もあるのだろう。 石碑であれば彫った職人の癖も あるのだろう。 文字の形があればそこから多くの類推ができるし比較もできるのだろう。 最大の敵は損壊する行為なのだろう。本来、加害者が囲われて然る

2011/11/5(土) 午前 6:49 [ CQF ]

  
鈴木 虎雄:豹軒:葯房:

鈴木 虎雄:豹軒:葯房: http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木虎雄 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。 自身も漢詩を多く作成した。号を漢詩では豹軒、和歌では葯房と称し「豹軒詩紗」、「葯房主人歌草」などがある。 http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen38.htm 鈴木豹軒

2011/11/18(金) 午後 8:29 [ ATS ]

  
馬頭観音:1795:寛政7乙卯きのとう年:

馬頭観音:1795:寛政7乙卯きのとう年: 三面は風化が進んで詳細は認識が難しい。さらにじっくり観察できればと思っている。 文字はしっかり認識できる。読めないものも一部あるが、苔の影響を工夫して読めればと思う。 念佛講中 願主 紫方■雲□尼...

2011/11/24(木) 午後 3:46 [ ATS ]

  
拓本:紙:墨:水:があればできる。これに若干の補助具とαで手軽に記録を!

拓本:紙:墨:水:があればできる。これに若干の補助具とαで手軽に記録を! 写真で残せればそれが一番手軽で安全ではありますが、これも限界とかあります。 これを補間する手段としての拓本の位置づけもあります。 また拓本の特徴を生かした活用もあり、これは写真では換えられません。 記録の手段はいくつもあるので、それらの特徴を生かした複数の手段を使えればそれが理想です。 残された物は劣化風化を避けられません。 すでに記録されてフリーに公開されていると多くの方に何かを語りかけられる可能

2011/11/26(土) 午前 1:35 [ ATS ]

  
三角縁神獣鏡、埼玉・東松山で発掘 中国で製造か

三角縁神獣鏡、埼玉・東松山で発掘 中国で製造か...

2011/12/23(金) 午前 2:28 [ ATS ]

  
古事記:日本書記:

古事記:日本書記: http://ja.wikipedia.org/wiki/古事記 古事記 712和銅5年に献上、原本は残ってないとされる。写本があり、多くの解釈本も残されているようだ。 青木周平 「古事記の諸本」『古代説話 記紀編』 桜楓社、1988年(昭和63年)4月20日、pp. 14-19。ISBN 4273022451 「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる 1371~1372最古の写本「真福寺古事記3帖」国宝、僧・賢瑜(名古屋・真福寺)、宝生

2012/1/10(火) 午後 11:38 [ ATS ]

  
663年8月28日,唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を復興させるため,最後の戦いが白村江(はくそんこう,はく ...

663年8月28日,唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を 復興させるため,最後の戦いが白村江(はくそんこう,はくすきのえ)で起こる http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm...

2012/1/11(水) 午前 0:11 [ ATS ]

  
Stone rubbing拓本

Stone rubbing拓本...

2012/1/12(木) 午後 5:42 [ ATS ]

  
Ancient Orient Museum, Tokyo 古代オリエント博物館

Ancient Orient Museum, Tokyo 古代オリエント博物館 www.sa.il24.net/~aom/ - 東京池袋にある古代オリエント博物館の公式ホームページです。...

2012/1/25(水) 午後 6:31 [ ATS ]

  
拓本:年輪:Annual rings:年輪年代学(ねんりんねんだいがく、dendrochronology)

拓本:年輪:Annual rings:年輪年代学(ねんりんねんだいがく、dendrochronology) 年輪は何を物語るのであろう。 拓本を取る機会があった。 そこから、樹齢は45年程度。その間のある種の変動に興味を喚起する。 Y軸は年輪幅に相当するが画像単位なので物理単位には換算する必要がある。スケールを同時に写すとよかった。 各位の近くで伐採されてしまったものがあれば、それを撮影して紹介ください。できればスケールと方位を同時に写し込めるとありがたいです。 それ

2012/4/26(木) 午前 7:43 [ 車QF ]

  
拓本:石碑:下馬門:□邦□:龍ヶ谷・龍神伝説と龍穏寺

拓本:石碑:下馬門:□邦□:龍ヶ谷・龍神伝説と龍穏寺 緑色の自然石(産地?)...

2012/7/8(日) 午前 9:54 [ ATS ]

  
りょくでいへんがん:緑泥片岩:下里石:野上下郷付近の石:板碑:嘉元四年(1306)

りょくでいへんがん:緑泥片岩:下里石:野上下郷付近の石:板碑:嘉元四年(1306) 野上も下里もまだ見た目での識別できてない。...

2012/7/8(日) 午前 10:32 [ ATS ]

  
拓本:mask:世界の人面:像:古代の造形

拓本:mask:世界の人面:像:古代の造形 各地に面の造形と文化があったようだ。 今でも、いくつかのお祭りとか、踊りとかで使われ現存している。 さて、それらは何を物語るのであろうか。 photo-1は何処かでみたものだが出典が明らかでない。 類似のものを順次サーチしておきたい。...

2012/10/18(木) 午前 4:05 [ 車QF ]

  
拓本:万葉歌碑

拓本:万葉歌碑 http://www.knet.ne.jp/~ats/t/bungaku/b6/yosiman.htm 秩父市吉田地区にある万葉歌碑。  巻十四の短歌「武蔵嶺の小峰見隠し忘れ・・」と、  巻二十の防人の歌「大君の命かし・・」が刻まれている。  文化二年(1805年)に建立された碑が、現在秩父市吉田歴史民俗資料館前に移転されており、  吉田小学校校庭内に、1995年再建された碑が置かれている。     武蔵禰能 乎美禰見可久志 和須礼遊久   武蔵

2012/10/23(火) 午前 9:11 [ ATS ]

  
古代エジプト:石材:花崗:岩石灰岩:片麻岩:珪岩:

古代エジプト:石材:花崗:岩石灰岩:片麻岩:珪岩: 古代エジプトの美術と石材 http://www.geocities.jp/kmt_yoko/EA_Stones.html http://www.gizabuildingproject.com/art_solenhofen4.php 木づちや銅製ののみなどの単純な道具 花崗岩 石灰岩:ピラミッド 片麻岩:彫像 珪岩:巨像...

2012/10/24(水) 午後 6:05 [ 車QF ]

  
石器:石材:「雲根志」

石器:石材:「雲根志」 日本列島の旧石器時代に用いられた石材の代表的なものは、 黒曜石、 硬質頁岩、 サヌカイトなどがあげられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/石器 清河寺前原遺跡 Seiganji-Maehara site 埼玉県 後期旧石器時代 前半~後半 35,000年前~20,000年前 http://palaeolithic.jp/sites/index.htm 石材は 砂岩、 頁岩、 蛇紋岩、 安山岩、 片岩など

2012/10/26(金) 午後 3:38 [ ATS ]

  
小松石:真鶴の本小松石(複輝石安山岩)断面写真

小松石:真鶴の本小松石(複輝石安山岩)断面写真 箱根火山(四):真鶴の本小松石(複輝石安山岩)です。 http://www.gregorius.jp/presentation/charts_45/s45_08.jpg 箱根火山(三):真鶴駅北西側の本小松石の採石場です http://www.gregorius.jp/presentation/charts_45/s45_07.jpg http://www.gregorius.jp/presentation/page_45.h

2012/11/17(土) 午前 4:52 [ ATS ]

  
真草

真草...

2012/12/10(月) 午前 1:13 [ ATS ]

  
土器に平仮名「いろは歌」=全文は最古、藤原氏邸宅跡から平安時代の貴族藤原家の邸宅跡として知られる「堀河院」(京都 ...

土器に平仮名「いろは歌」=全文は最古、藤原氏邸宅跡から平安時代の貴族藤原家の邸宅跡として知られる「堀河院」(京都市中京区) Google ニュース @GN_JP 7分 土器に平仮名「いろは歌」=全文は最古、藤原氏邸宅跡から-京都〔時事通信平安時代の貴族藤原家の邸宅跡として知られる「堀河院」(京都市中京区)から、平仮名の「い… http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013062700763http://news.google.co.jp/

2013/6/27(木) 午後 5:46 [ 車QF ]

  
高根町誌:今川氏朱印過書:天文22年:

高根町 1989,1990 『高根町誌』通史編 上・下巻 信仰の一つの例として、 高根町指定文化財のなかに「今川氏朱印過書」がある。 これは、天文22年に伊勢神宮参拝の一行に駿河国今川義元駿河遠江三河三国の関所渡し船等 の通行を保証したものであり、 当時より伊勢信仰が盛んに行われていたことを示す資料である。 http://rar.yamanashi.nii.ac.jp/file/989/20140306181118/712八ヶ岳考古.pdf...

2014/5/21(水) 午前 5:12 [ CQF ]

  
大類:古地図:大ルイ

大類:古地図:大ルイ 大ルイの記された古地図に目が止まる。 https://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/d_conts/ezu/gazou/011.jpg 年代はコメントなど参照で1711年前後を思い描いている。 そこにいくつかの地名があるので、その往時の参考にしたい。 シカ村 大ルイ マテ三リ スカヤ 大倉 ニカ村 大ルイ 根ギシ ヘ三リ 高萩 ヲコセ ホニ(ホマ) 秋元但馬守居城 河越 (

2014/6/9(月) 午前 6:35 [ CQF ]

  
拓本:板碑の拓本を取ってみよう

拓本:板碑の拓本を取ってみよう 基本は通常のやりかたと同じ手順。 注意点は対象の状態、事情にある。 その点をクリアしていると、平面の板碑は彫の状態に依存するだけ。 http://www.ariworiaru.com/ishibu/ishibu_report/itabi-takuhon-suru/ 文字を読む、記録だけなら、写真に適切に写ればそれでも良い。 しかし、それでは済まない場合も多いので、拓本も活用すべきなのだろう。 埋蔵物が発掘さ

2014/7/3(木) 午後 5:35 [ ATS ]

  
拓本の起源

拓本の起源 http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/ http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/109-s.jpg            熹平石経は熹平4年(175)、蔡?らの上奏により制作が許可され、光和6年(183)に完成した。『後漢書』巻60下、蔡?伝に、「碑始めて立つに及びて、其の観視及び模写する者、車乗日に千余両輛、街陌を填塞す」とある。石経は見るものであり、文章を必要とするものは模写

2014/7/5(土) 午前 4:31 [ ATS ]

  
未洗本・鄭羲下碑

No.49 未洗本・鄭羲下碑 http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/  葉昌熾(『語石』)は、刻石に草がはえ、苔むし、土が付いているものを洗わずに採拓すると良い拓はとれないと述べるとともに、刻面を掃除したあとの拓本は明瞭になり、単に古いだけで文字の不明瞭な拓本より値打があるという。このように、刻された文字がはっきりするように刻面を掃除することを洗石といい、その拓本を洗石精拓本という。 拓本の目的により、その考え方に違いがでる。

2014/7/5(土) 午前 5:18 [ ATS ]

  
狭山:板碑:文永九1272:元徳三1331:応永六1399逆修:康正三1457:文明十四1482:

狭山:板碑:文永九1272:元徳三1331:応永六1399逆修:康正三1457:文明十四1482:...

2014/7/14(月) 午後 5:51 [ ATS ]

  
庚申塚1853嘉永六癸丑1856安政三年丙辰?飯能市青場戸卍

庚申塚1853嘉永六癸丑1856安政三年丙辰?飯能市青場戸卍 1853嘉永六癸丑 みずのと うし 50 1856安政三年丙辰?については読めない文字があり 安政と辰から年号を推定 ひのえ たつ 53 http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?crs=1&meshcode=53396155&z=16#crs=1&meshcode=53396155&z=16&zoom=18&lat=35.90912&lon=1

2014/7/22(火) 午前 6:31 [ ATS ]

  
石碑:梵字:アーク:大日如来:

石碑:梵字:アーク:大日如来: http://yoshio-niikura.cocolog-nifty.com/tanabota/2012/05/post-db9e.html...

 

 

 

 

2014/8/2(土) 午前 8:35 [ ATS ]

 

 

 

 

 

  
716霊亀2年奈良時代::続日本紀:高麗郡の設置:和名妙:高麗郷と上総郷

716霊亀2年奈良時代::続日本紀:高麗郡の設置:和名妙:高麗郷と上総郷 『続日本紀天正天皇霊亀2年(716)5月16日条に、 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸下野国の7国在住の高麗人1799人を武蔵国に遷し高麗郡を置くとある(下記資料より要約)。 詳細については以下の資料を紹介する。 〓『高麗神社・高麗家文書目録』(高麗神社社務所 2006)p5「高麗神社・高麗家の歴史」の項。〓『高麗神社』(さきたま出版会)p4-6に「続日本記」の原文の記載があり、霊亀2年(716)

2014/8/3(日) 午後 6:34 [ ATS ]

  
尹湾(いんわん)漢墓出土漢簡

尹湾(いんわん)漢墓出土漢簡 http://183.181.26.148/?cat=19...

2014/9/23(火) 午後 10:10 [ ATS ]

  
paper:韓紙:*黄紙(けふぁんじゅ?)

paper:韓紙:*黄紙(けふぁんじゅ?) http://ja.wikipedia.org/wiki/韓紙 韓紙(音読みでかんし、高麗紙(こりのかみ)、朝鮮紙)は、2世紀から7世紀の間に中国から製紙技術が伝わり、朝鮮半島で特異な発達をとげた製紙技術によって生産された紙。主原料は楮(こうぞ)だが、18世紀になると原料不足を補う目的で、補助原料も配合された。補助原料は稲藁、柳、ハトムギ等であるが、ハトムギの配合は朝鮮独特で、日本や中国での使用実績は無い。配合比率100%の楮紙は『打ち紙』

2014/10/6(月) 午前 9:35 [ ATS ]

  
拓本:古文書:年代:元禄6年:酉八月19日:生類憐みの令:

拓本:古文書:年代:元禄6年:酉八月19日:生類憐みの令:...

2014/10/6(月) 午後 7:20 [ ATS ]

  
拓本:説文解字:早稲田大学PDF:馬:牛:犬:戌:羊:象:鹿:鼠:亀:辰:

拓本:説文解字:早稲田大学PDF:馬:牛:犬:戌:羊:象:鹿:鼠:亀:辰: 馬:BSD-p162,SetuMon-1897[1^9],005.pdf,p 44/99 牛: BSD-p102 犬:戌: BSD-p103 羊: BSD-p122 象: BSD-p143 鹿: BSD-p168 鼠: BSD-p172 亀: BSD-p173 BSD:部首が分かる字源事典 辰:BSD-p148.

2014/12/4(木) 午前 3:02 [ ATS ]

  
拓本:永平十六年四月廿二日

永平十六年四月廿二日 (73年) http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/123-s.jpg http://www.artlife-sha.co.jp/hasshi/...

2015/11/19(木) 午後 10:32 [ CQF ]

  
古文書:東村山市最古のもの発見:寛永14年1637:関東中悪党取締触書:

古文書:東村山市最古のもの発見:寛永14年1637:関東中悪党取締触書: H150501 H9に 古文書を整理中発見される https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/shisei/koho/sihou/15sihou/20030501.files/20030501-6.pdf 少なくとも、H15年まではそれが、その資料館最古とされている。 https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/

2015/11/24(火) 午前 5:16 [ CQF ]

  
拓本:和紙:小川町:日影村:

拓本:和紙:小川町:日影村:...

2015/12/13(日) 午前 4:56 [ CQF ]

  
拓本:武蔵戦記:足利時代関東の形勢,鶴ケ峯の合戦:畠山重忠:

拓本:武蔵戦記:足利時代関東の形勢,鶴ケ峯の合戦:畠山重忠: http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1092043 武蔵戦記. 第1号 (足利時代関東の形勢,鶴ケ峯の合戦) 1205 畠山重忠と史跡(二俣川古戦場) 鶴ケ峰に布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍(1万騎以上)と激戦を繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/二俣川

2015/12/16(水) 午前 1:50 [ CQF ]

  
拓本:十三佛結衆板碑

拓本:十三佛結衆板碑 十三佛結衆板碑 文明5 年(1473)刻。 http://rekkodan.a.la9.jp/2015/kiroku/150927.pdf 30 十三仏結衆板碑(じゅうさんぶつけちじゅういたび) https://www.city.iruma.saitama.jp/bunkazai/bunkazai/13butsu.html...

2015/12/19(土) 午前 2:25 [ CQF ]

  
新編相模国風土記稿

1 新編相模国風土記稿. 第1輯 図書 間宮士信 等編 (鳥跡蟹行社, 1888) 2 新編相模国風土記稿. 第2輯 足柄下郡 図書 間宮士信 等編 (鳥跡蟹行社, 1888) 3 新編相模国風土記稿. 第3輯 大住・愛甲・高座郡 図書 間宮士信 等編 (鳥跡蟹行社, 1888) 4 新編相模国風土記稿. 第4輯 鎌倉郡 図書 間宮士信 等編 (鳥跡蟹行社, 1888) 5 新編相模国風土記稿. 第5輯 三浦・津久井郡 図書 間宮士信 等編 (

2015/12/20(日) 午後 11:05 [ CQF ]

  
拓本:石碑:将監淵:馬頭尊:庚申塔:将監渕:平山邨講中

拓本:石碑:将監淵:馬頭尊:庚申塔:将監渕:平山邨講中 RE15No3p9b,21 新編武蔵風土記稿p61/123, 小名:古ミヤ、将監淵、堀ノ内、伊勢原、平山、塚場、和泉、サントウ、 東坊、渡戸、別所、毛呂河内、阿諏訪口、吉村屋敷 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764003...

2015/12/25(金) 午前 6:38 [ CQF ]

  
拓本石碑:地名:神戸:上戸:下戸:七戸:八戸:江戸:坂戸:森戸:西戸瀬戸:

拓本石碑:地名:神戸:上戸:下戸:七戸:八戸:江戸:坂戸:森戸:西戸瀬戸: 一戸建て:いっコだて 地名 一戸:いちのヘ 八戸 神戸:こうベ(関西)、ごうド(関東[千葉、]) 七戸:ななト 下戸:さげト 江戸:えド (関東) 上戸:うわド 坂戸:さかド 西戸:さいド https://kotobank.jp/word/戸-61194 デジタル大辞泉の解説 こ【戸】 [名] 1 と。と

2015/12/26(土) 午前 4:13 [ CQF ]

  
拓本:石碑:系図:

拓本:石碑:系図: p6/12 http://doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/06604.pdf...

2015/12/29(火) 午前 10:42 [ CQF ]

  
拓本:漢文:白文:古代日本語では濁点がない:

拓本:漢文:白文:古代日本語では濁点がない: 古代日本語では濁点がない http://homepage2.nifty.com/o-tajima/kanbun/kan1.htm 音読みと訓読みについて http://homepage2.nifty.com/o-tajima/kanbun/kan2.htm 易:この文字はBSD(部首がわかる 字源事典)でまだ見当たらない。 日(太陽)+彡(光)+勹(雲に隠れる) 「エキ」という読みの時は「かわる」「うらない」の意味。

2016/1/1(金) 午前 7:56 [ CQF ]

  
拓本:最古級硯:すずり片出土:福岡「魏志倭人伝」伊都国の遺跡:弥生時代:

拓本:最古級硯:すずり片出土:福岡「魏志倭人伝」伊都国の遺跡:弥生時代: http://mainichi.jp/articles/20160302/k00/00m/040/031000c 最古級のすずり片出土 福岡「魏志倭人伝」伊都国の遺跡 日本経済新聞〓 - 7 時間前 古代中国の歴史書魏志倭人伝」に登場する「伊都国(いとこく)」の都だったとされる福岡県糸島市の三雲・井原(いわら) ... 弥生時代のすずり発掘は国内2例目。 ... 市教委は「伊都国では楽浪郡からの渡来人

2016/3/2(水) 午前 7:10 [ CQF ]

  
西戸古墳群:越生五領遺跡:下ケ戸薬師堂:南比企窯跡群:須惠器:瓦:新沼窯跡:

西戸古墳群:越生五領遺跡:下ケ戸薬師堂:新沼窯跡: 新沼窯跡: 瓦:軒丸瓦の文様 棒状子葉単弁軒丸瓦:赤沼古代瓦窯跡、東松山大谷瓦窯跡などで生産。 小用廃寺、勝呂廃寺に使われた。(、東松山市大西遺跡、) 武蔵国分寺: https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵国分寺跡 旧武蔵国分寺の創建は、8世紀半ばの 750年代末から760年代初と推測されている。敷地は東西8町、南北5町半と推測され、 諸国の国分寺のなかでも相当に大きい部類に

2016/6/12(日) 午前 5:17 [ CQF ]

  
拓本蝦夷えみし:えびす:えぞ:

拓本蝦夷えみし:えびす:えぞ: https://ja.wikipedia.org/wiki/蝦夷 5世紀の中国の歴史書宋書倭国伝に、 478年(順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。 「 自昔祖禰躬環甲冑 跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」 蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。 「愛瀰詩

2016/6/25(土) 午前 4:06 [ CQF ]

  
古事記:日本書記:後漢書東夷伝:

古事記:日本書記:後漢書東夷伝: https://ja.wikipedia.org/wiki/建武中元 後漢書東夷伝 建武中元二年:西暦57年:干支 丁巳...

2016/10/8(土) 午後 10:43 [ CQF ]

  
拓本:漢文:DIC:魯般(ロハン)伝説:工匠:祭神:神:

拓本:漢文:DIC:魯般(ロハン)伝説:工匠:祭神:神: http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.26.03.22.htm http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.24.01.09sinsentugan.htm ろ‐はん【魯般】 中国、春秋時代の魯の工匠。公輸般(こうしゅはん)ともいい、機械の製作にすぐれ、雲梯(うんてい)(城攻めに用いるはしご)を考案したという。後世、工匠の祭神とされた。生没年未詳。 http 削除

2017/4/11(火) 午前 9:57 [ CQF ]

  
古事記:安万侶:712年3月13日:和銅五年正月廿八日:稗田阿礼:

古事記:安万侶:712年3月13日:和銅五年正月廿八日:稗田阿礼: 左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/2d/太安萬侶墓出土_墓誌・真珠.JPG https://ja.wikipedia.org/wiki/太安万侶 稗田阿礼 https://ja.wikipedia.org/wiki/稗田阿礼... 削除

2017/4/27(木) 午後 7:40 [ CQF ]

  
WHAT IS HISTORY? E. H. Carr

WHAT IS HISTORY? E. H. Carr https://ia800204.us.archive.org/0/items/WhatIsHistory-E.H.Carr/historycarr.pdf 岩波新書 D1 歴史とは何か 清水幾太郎・訳... 削除

2018/9/5(水) 午後 2:13 [ CQF ]

  
拓本:人名;

拓本:人名; 江戸: 平七(五人組、組頭) 清三郎 伊三郎 徳兵衛 喜三郎 〆五人 庄三郎(組頭) 喜兵衛 宇之助 安兵衛 佐吉 庄蔵(組頭) 喜八郎 善七 小重郎 源蔵 又右衛門 孫兵衛 佐七 長次郎 又六 嘉吉 □(杢、重)右衛門 〆七人組... 削除

2018/9/20(木) 午前 8:22 [ CQF ]

  
拓本:Impressionism:印象派:

拓本:Impressionism:印象派:... 削除

2019/2/24(日) 午前 9:13 [ CQF ]

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広開土王

https://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/g01.files/06/kudara.html

百濟本記による半島情勢年表

 

古代東アジア世界史年表

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続日本紀:

日本書紀・続日本紀の新羅郡記事 - シラキのコホリ

 

続日本紀
巻二十一
天平寶字二年八月癸亥条
癸亥。歸化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武藏國閑地。於是。始置新羅郡焉。
758年8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地[3]に移住させ、始めて新羅郡を置く。

 

 

日本書紀続日本紀における新羅郡関連記事のまとめ。


目次
1    日本書紀
1.1    巻三十
2    続日本紀
2.1    巻二十一
2.2    巻二十二
2.3    巻三十六
3    注記
日本書紀
巻三十
持統元年四月癸卯条
夏四月甲午朔癸卯、筑紫大宰献投化新羅僧尼及百姓男女廿二人。居于武蔵国。賦田受稟、使安生業。
687年4月10日、筑紫大宰、帰化新羅人僧尼及び百姓男女合わせて22人を進上した。武蔵国に居住させ、田を支給して、農業に従事させる。
持統四年二月戊午条
戊午。新羅沙門詮吉。級飡北助知等五十人歸化。
690年2月11日、新羅僧 詮吉、級飡[1] 北助知ら50人が帰化した。
持統四年二月壬申条
壬申。以歸化新羅韓奈末許滿等十二人。居于武藏國。
690年2月25日、帰化新羅人 韓奈末[2] 許満ら12人を武蔵国に居住させる。
持統四年八月乙卯条
乙卯。以歸化新羅人等居于下毛野國。
690年8月11日、帰化新羅人を下毛野国に居住させる。
続日本紀
巻二十一
天平寶字二年八月癸亥条
癸亥。歸化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武藏國閑地。於是。始置新羅郡焉。
758年8月24日、帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地[3]に移住させ、始めて新羅郡を置く。
巻二十二
天平寶字四年四月戊午条
戊午。置歸化新羅一百卅一人於武藏國。
760年4月28日、帰化した新羅人131人を武蔵国に住まわせる。
巻三十六
宝亀十一年五月甲戌条
甲戌。左京人從六位下莫位百足等一十四人。右京人大初位下莫位眞士麻呂等一十六人並賜姓淸津造。左京人從六位上斯𦼳行麻呂賜姓淸海造。右京人從七位下燕乙麻呂等一十六人並賜姓御山造。正八位上韓男成等二人賜姓廣海造。武藏國新羅郡人沙良眞熊等二人賜姓廣岡造。攝津國豊嶋郡人韓人稲村等一十八人賜姓豊津造。勑出羽國曰。渡嶋蝦狄早効丹心。來朝貢献。爲日稍久。方今歸俘作逆。侵擾邊民。冝將軍國司賜饗之日。存意慰喩焉。
780年5月11日、(中略)武蔵国新羅郡の人 沙良真熊など二人に姓広岡造を賜う。
注記
 級飡は新羅の官位である。級伐飡ともいう。
 韓奈末は新羅の官位で、級飡の一つ下の「大奈麻」であると考えられる。大奈麻は韓奈麻や大奈末と記されていることがあり、韓奈末もその異表記と考えるのが妥当だろう。
 新羅郡は入間郡を割いて作ったのか、それとも豊島郡を割いて作ったのかという議論が行われているが、ここにあるように「閑地」つまり空白の地に新羅人を移住させたというように素直に読むべきだと思われる。現在のように地図上で境界線がきれいに引かれ、空白地がないように区切られるようになったのは後代のことであり、当時は集落と集落の間には空白の地が広がっていたと考えるのが妥当である。詳しくは新羅郡#領域参照。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/和名類聚抄

承平年間(931年 - 938年)

和名類聚抄 国郡部 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

P14-15

新座:爾比久良(ニヒクラ)

すでにこの頃には新羅郡から新座と変わり取り上げられていて。

いつの頃からニイザと呼ばれるようになったのであろうか。

p339に変容が紹介されている。個々に検証できるのかも興味あるところだろう。

 

 

「中世の赤塚にあった鰐口、約550年ぶりに板橋区に里帰り」|板橋区公式ホームページ

 

応永27年 (1420)

武州豊島郡赤塚郷石成村観音堂鰐口…応永廿七年庚子九月十八日…」などの陰刻

寛正七年丙戌正月暦日(1466)

加えて裏面にも「武州新座郡中目満願寺観音堂鰐口…寛正七年丙戌正月暦日…」などの追刻

 

https://rekitama-wako.jp/wako_rekishinotamatebako/images//wako-furusato-map.pdf

元亀2年 (1571)

 

 

 

 

 

防人(さきもり)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/健児

 

https://www.shiraki-history.com/wiki/日本書紀・続日本紀の新羅郡記事

では健児(こんでい)と呼んでいた。武蔵の兵力105人など、各地の事情と

時代の反映した変化があるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西暦    和暦
700年    ??15年
701年    ??16年
大宝元年
702年    大宝2年
703年    大宝3年
704年    大宝4年
慶雲元年
705年    慶雲2年
706年    慶雲3年
707年    慶雲4年
708年    慶雲5年
和銅元年
709年    和銅2年
710年    和銅3年
711年    和銅4年
712年    和銅5年
713年    和銅6年
714年    和銅7年
715年    和銅8年
霊亀元年
716年    霊亀2年
717年    霊亀3年
養老元年
718年    養老2年
719年    養老3年
720年    養老4年
721年    養老5年
722年    養老6年
723年    養老7年
724年    養老8年
神亀元年
725年    神亀2年
726年    神亀3年
727年    神亀4年
728年    神亀5年
729年    神亀6年
天平元年
730年    天平2年
731年    天平3年
732年    天平4年
733年    天平5年
734年    天平6年
735年    天平7年
736年    天平8年
737年    天平9年
738年    天平10年
739年    天平11年
740年    天平12年
741年    天平13年
742年    天平14年
743年    天平15年
744年    天平16年
745年    天平17年
746年    天平18年
747年    天平19年
748年    天平20年
749年    天平21年
天平感宝元年
天平勝宝元年
750年    天平勝宝2年
751年    天平勝宝3年
752年    天平勝宝4年
753年    天平勝宝5年
754年    天平勝宝6年
755年    天平勝宝7年
756年    天平勝宝8年
757年    天平勝宝9年
天平宝字元年
758年    天平宝字2年
759年    天平宝字3年
760年    天平宝字4年
761年    天平宝字5年
762年    天平宝字6年
763年    天平宝字7年
764年    天平宝字8年
765年    天平宝字9年
天平神護元年
766年    天平神護2年
767年    天平神護3年
神護景雲元年
768年    神護景雲2年
769年    神護景雲3年
770年    神護景雲4年
宝亀元年
771年    宝亀2年
772年    宝亀3年
773年    宝亀4年
774年    宝亀5年
775年    宝亀6年
776年    宝亀7年
777年    宝亀8年
778年    宝亀9年
779年    宝亀10年
780年    宝亀11年
781年    宝亀12年
天応元年
782年    天応2年
延暦元年
783年    延暦2年
784年    延暦3年
785年    延暦4年
786年    延暦5年
787年    延暦6年
788年    延暦7年
789年    延暦8年
790年    延暦9年
791年    延暦10年
792年    延暦11年
793年    延暦12年
794年    延暦13年
795年    延暦14年
796年    延暦15年
797年    延暦16年
798年    延暦17年
799年    延暦18年