古事記:日本書記:後漢書東夷伝:

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古事記:日本書記:後漢書東夷伝:


https://ja.wikipedia.org/wiki/建武中元
後漢書東夷伝
建武中元二年:西暦57年:干支 丁巳

 

 

 

コメント(21)

  

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後漢書東夷伝
kon.main.jp/jdat/dat/kofun/goknj_1.htm
原文, 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す(奉貢朝賀す)。使人自ら大夫と称す。倭国の極 ... 出展, 「後漢書東夷伝 / 後漢の正史 編者は宋の范曄(はんよう)と、東晋の司馬彪(しばひよう) /西暦432年完成 / 後漢書は全120巻. 備考, ・本来の原文は漢文( ...

2016/10/8(土) 午後 10:44ogw*og*3 ]

  

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漢書地理志(古墳時代
原文 夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
読み それ、らくろうかいちゅうにわじんあり。わかれて、ひゃくよこくとなる。さいじをもってきたり、けんけんすという。
出展 「漢書」地理志 / 前漢の正史 編者は班固(はんこ) / 1世紀初頭
備考 ・日本に関する確実な資料としては最古
・本来の原文は漢文(楽浪海中倭人分為百余国以歳時来献見云)。
・地理志は漢書(かんじょ)の中にある10志のうちの一つ
・「楽浪」楽浪郡のことで、前漢武帝がB.C.108年に朝鮮においた4郡のひとつ。ほかに真番(しんぱん)、玄菟(げんと)、臨屯(げんと)の各郡がある。
入力 藤井正博

2016/10/8(土) 午後 10:49ogw*og*3 ]

  

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魏志倭人伝 [邪馬台国](古墳時代
出展 「三国志」(全65巻)のうち「魏書」東夷伝の「倭人条(わじんのじょう)」 / 3世紀に晋の陳寿(ちんじゅ)が撰した「三国志」の一部 / 一般的には『魏志倭人伝というが、三国志「魏書」東夷伝倭人条という方が正しい / 魏書(魏志)は全30巻
http://kon.main.jp/jdat/

2016/10/8(土) 午後 10:53ogw*og*3 ]

  

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宋書倭国伝[倭の五王](古墳時代

出展 「宋書倭国伝 / 宋の正史 / 編者は沈約(しんやく) / 梁の永明5年(西暦487)成立。倭国伝は夷蠻傳(夷蛮伝)の中に収録されている。宋書は全100巻。

http://kon.main.jp/jdat/

2016/10/8(土) 午後 11:05ogw*og*3 ]

  

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その倭伝には次のように書かれています。


建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬
建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極めて南界なり、光武賜うに印綬を以てす


安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見
安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う


まず倭国後漢へ訪朝したという記録は、建武中元二年(西暦五七年)に倭奴国が世祖光武帝を朝賀して金印を下賜されたという、教科書にも必ず載っている有名な話から始まります。
これは倭人の国が初めて史書に記された事例であると同時に、倭人の国が初めて大陸の王朝と外交的に接点を持った歴史的な事件でもあり、以後倭人とか倭国と言えばそれは日本人と日本列島を指すようになります。

2016/10/9(日) 午前 5:18ogw*og*3 ]

  

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次に永初元年(西暦一〇七年)の安帝の代の記録を見てみると、ここでは倭人の国の呼称が「倭奴国」ではなく単に「倭国」となっています。
ただ現存する『後漢書』では確かに「倭国」となっていますが、同書を参考にしたと思われる書物の中には別の書き方をしているものもあって、倭奴国同様にこれも今もって定説を見ていません。
その中のいくつかを国名に続く「王帥升等」の箇所と併せて並べてみると次のようになっています。

唐代の『翰苑』では「有倭面上国王師升等」とあり、北宋版『通典』では「倭面土国王師升獻生口」、『唐類函』の通典引用の条では「倭面土地王師升獻生口」となっています。
「帥」と「師」、「上」と「土」に関しては写本の際の誤植かと思われますが、別にどちらであろうと大して変りません。
また日本側の史料では、『日本書紀纂流』に「倭面国」「倭面上国王師升等」とあり、『釈日本紀』開題には同じく「倭面国」とあります。
そして『日本書紀纂流』では「倭面」の国名の由来として、国民に黥面の風習があったので、「面」の字を入れたのだと解説しています。

2016/10/9(日) 午前 5:23ogw*og*3 ]

  

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しかし統一帝国である後漢の治世に、果して倭人の王に「倭国王」の称号が認められたかどうかとなると、やはり可能性としては低いと言えます。
因みに「倭王」はどちらかというと「酋長」の意味もあるので比較的認められ易く、帝国内でも封侯された皇族や功臣に「韓王」や「楚王」などの王号が与えられる場合もあります。
また「倭奴国王」や「倭面国王」といった王号は、基本的に中国へ臣従した四夷の王に与えられるもので、格から言えば「倭国王」とは比べるべくもありません。
従ってこの安帝の代の「倭国」という箇所については、やはり何らかの脱植があると考えるのが自然でしょうか。

2016/10/9(日) 午前 5:24ogw*og*3 ]

  

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それに続く「王帥升等」の四文字もまた見解の分かれる箇所であり、多くの訳文を見る限り「帥升」を人名と捉えて、前述の通りそのまま「倭国王帥升ら」と訳すのが一般的な例となります。
そしてその場合、「倭国王」の称号が疑問であることは既述しました。
また王自らが海を渡ったとは些か考え難いこともあって、これを「倭国の王帥の升ら」と読む(或いは「等」までを人名と読む)べきとする意見も多く、国名同様やはり定説を見ていません。

ただ漢文の書籍というのは元来不親切この上ないもので、いつの時代にも数多くの注釈書が作られているというのは、注釈を入れなければ漢人でも読めない語句や、意味の通じない文章が余りに多いからであり、これが史書ともなると著者当人にしてからが事の本質を理解していなかったのではないかと思われる箇所も多々あります。

2016/10/9(日) 午前 5:25ogw*og*3 ]

  

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まして非漢人の諸民族について記した文書などは、その地名や人名が尽く当て字である上に、その読み方についての解説も一切付かないのが普通なので、実のところ(著者も含めて)四夷の列伝を正確に読める人間など(その史書が完成した直後から)唯の一人もいないのが実状です。

そしてこの倭奴国と倭面国という、五十年の時を隔てて後漢朝貢した二つの倭人の国は、果して倭の地にあってどんな関係だったのでしょうか。
倭伝の文面だけで見ると、倭奴国が金印を下賜されたのに対して、倭面国は「願請見」で終っていますから、一読した限りでは倭奴国の方が重んじられたようにも見えます。
ただ後述する通り、倭奴国が殊更に厚遇されたのは専ら後漢建国の余沢によるものなので、それを理由に両国の軽重を量るのも些か無理があります。

2016/10/9(日) 午前 5:26ogw*og*3 ]

  

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無論この両者を同一国と見る向きも多く、『隋書』では光武帝と安帝に朝貢したのはどちらも倭奴国だとしており、むしろ支那ではこの立場を取る方が一般的と言えます。
因みにこの千三百年後、日本では明からの冊封を巡って懐良親王派と足利義満が争ったりしていますが、どちらも国王ではないにも関らず明帝から「日本国王」の称号を与えられており、実のところ大陸の王朝との関係というのも甚だ当てにならないものなのですが。

また外交的に見た時に、なぜ倭の使者がこの二帝の代に後漢の地を踏んだのかというと、光武帝の場合これははっきりしています。
王蒙による簒奪後の乱世を平定して、劉氏の漢を再興した光武帝ですが、倭奴国の入朝した建武中元二年というのは、他ならぬ帝の崩じた年に当ります。

2016/10/9(日) 午前 5:27ogw*og*3 ]

  

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言わばその在世に何とか間に合った訳で、何しろ東の海上の民が遠路遥々首都洛陽を訪れて、有史以来初めて中夏の天子に拝謁するとなれば、やはり時の皇帝は世祖光武帝でなければ意味がないでしょう。

ましてこの前年に光武帝は封禅の儀を執り行っており、建武中元という元号もそのための改元でしたから、それを受けての倭人の入朝は帝にとっても感慨深いものであったでしょう。
但し当時の倭人がそうした後漢側の事情を慮ったとは思えませんので、やはり基本的には漢人の方から倭人接触を試みたと見るのが自然であり、従って倭人朝貢という空前の慶事に際しては、遼東太守の蔡肜を始めとして、直接の折衝に当った郡の役人に至るまで、臣下の並々ならぬ尽力があったものと思われます。

2016/10/9(日) 午前 5:28ogw*og*3 ]

  

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やがて光武帝の直系は第五代殤帝で途絶えて、三代章帝の孫を六代皇帝として迎えることになりますが、それが弱冠十三歳の安帝であり、父はかつて讒言によって章帝の皇太子を廃された清河王劉慶でした。
そして倭人が再び入朝した永初元年とは、他ならぬ安帝の元年(即位はその前年)に当り、光武帝同様に帝位の系統が代った年でもあります。
そして正にその好機で倭面国の訪朝が実現した訳ですから、やはりこれも倭人の方から自発的に赴いたというよりは、郡太守なり官僚なりが気を利かせた可能性が高いと言えます。

尤も後漢の場合、四代和帝以降、成人に達してから即位した皇帝は一人もおらず、この後も帝位の系統が安定することはなかったのですが、永初以来倭人関連の記録が途切れてしまうのは、むしろ後漢の方がそれを必要としなくなったからでしょう。

2016/10/9(日) 午前 5:29ogw*og*3 ]

  

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そして前述の通り、永初元年は建武中元元年から数えて五十年の節目に当りますが、これは単なる偶然のようです。
そして再び倭人漢籍上に登場するのは、献帝の建安年間(西暦一九六~二二〇年)の頃に、倭人帯方郡に属すことになったと伝える『魏志東夷伝の記録になります。

2016/10/9(日) 午前 5:30ogw*og*3 ]

  

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これは戦功なのであって、至極当然の話ながら、中国にしてみればあくまで自国の史書なのですから、異国の伝であろうと何であろうと、それは自国の歴史の一部に過ぎない訳です。

従って中国の歴史の末席に加われなかった国や民族は、基本的に記録の対象とはなりません。
前記の両越・朝鮮・西南夷三者にしても、特に伝を立ててその歴史を後世に伝えられたのは、その国土が漢帝国の領土となったことで、その存在もまた漢の歴史の一部となったからです。
従って逆に言えば、もしこれ等の国々が以後も独立を保ち、漢帝国の一片として吸収されていなければ、その詳細が文字にして書き残されることはなかったかも知れません。




http://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/e/978760468c73750aadc810e85ae8da1a

2016/10/9(日) 午前 6:47ogw*og*3 ]

  

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明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(拼音: Qín, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる[4]。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、

https://ja.wikipedia.org/wiki/支那

2016/10/9(日) 午前 7:37ogw*og*3 ]

  

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王朝・政権の変遷


https://ja.wikipedia.org/wiki/中国の歴史


戦国時代(紀元前403年 - 紀元前221年)…晋が韓・趙・魏に分裂し、戦国時代突入。
秦(紀元前221年 - 紀元前207年)…秦王・政(始皇帝)が6国を滅ぼし中華統一。

前漢西漢、紀元前206年 - 8年)…秦滅亡後、楚の項羽との楚漢戦争に勝ち、劉邦(高祖)が建国。
新(8年 - 23年)…外戚の王莽が皇帝から帝位を簒奪後、建国。
後漢東漢、25年 - 220年)…前漢の景帝の子孫の劉秀(光武帝)が新末後漢初の動乱を勝ち抜き、漢を再興。
三国時代(220年 - 280年)

2016/10/9(日) 午前 7:43ogw*og*3 ]

  

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史記

https://ja.wikipedia.org/wiki/史記

史記』とは

http://kanso.cside.com/siki.htm

司馬遷の家は、はるか古代の周の時代から歴史を司る家でした。

前145年 1 夏陽県竜門に生まれる。父は司馬談
前86年 60 この頃、司馬遷死す?

2016/10/9(日) 午前 8:20ogw*og*3 ]

  

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史記』の日本語訳」に戻る - So-net
www013.upp.so-net.ne.jp/orii/shiki/NIHONGO.HTM
写真は扉頁, 小竹文夫・小竹武夫訳『史記』上・下(筑摩世界文学大系1962,初版1956-52). 弘文堂から出版 ... この訳書で注目されるのは「書」の部分の翻訳で、図などを用いて決してわかりやすいとは言えない原文を理解できるようにしている。しかし、これは上 ...

http://www013.upp.so-net.ne.jp/orii/shiki/NIHONGO.HTM

2016/10/9(日) 午前 9:09ogw*og*3 ]

  

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平成の馬鹿査定

万里の長城

誰もが責任を負わない構図とその背景

この実態解明が必要


http://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/m/201512

2016/10/9(日) 午前 9:47ogw*og*3 ]