随書倭国伝:開皇二十年:AD600年:

随書倭国伝:開皇二十年:AD600年:

 

 

 

https://kotobank.jp/word/隋の時代%28年表%29-1614640

 

 

「開皇二十年」記事について(一)

 

http://www.ja8sfx-james.com/bodyx220.html

http://www.ja8sfx-james.com/bodyx221.html

http://www.ja8sfx-james.com/bodyx222.html

しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。

 

 

隋書俀国伝

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

 

 開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたる。この年に遣隋使の記録はないが、中国側の記録の正確さや、ウソをつく理由がないことなどを考慮して、隋書を信じるべきであろう。逆に言えば、日本書紀はウソを書く理由があると言うことである。

 

 

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/多利思比孤

多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「」としている文字を「」と記述している[1]。『北史』にも記されている。

 

[1]

日本では通常、「國」は「倭國」の誤りとされる。

 

 

解釈[編集]

『隋書』や『北史』はこの王を妻のいる男性としており、この時期に男性の大王は『日本書紀』、『古事記』には登場しない。『旧唐書』卷199上 列傳第149上 東夷 倭國 においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり多利思北孤を多利思比孤とし用明天皇としている。

 

 

日本では直木孝次郎による多利思孤は多利思孤の誤りとする説が通説となっている。また、推古天皇厩戸皇子聖徳太子用明天皇の嫡子)のことだとする論者もいる。また、多利思比狐の「比狐」(ひこ)は男性と思われるので、推古天皇ではなく当時の有力者である蘇我馬子聖徳太子であるという説もある。

太子名(固有名詞説と普通名詞説がある)のうち利を和の誤りとする説がある。

 

古来の大和言葉では、原則として「ら行」音は語頭に立たない(万葉仮名では語頭にr音が来ない)ことから、「利」を「和」の誤りとして「利歌彌多弗利」を「和歌彌多弗利」とする。また、「和歌彌多弗利」を源氏物語等にもあらわれる「わかんどほり(皇室の血統、皇族)」とする説もある[5]。なお、『翰苑』には「王長子号和哥彌多弗利。華言太子。」とある。

中国風に姓と字に分割されているが、タラ(リ)シヒコは人名ではなく、日本語の意味を理解していなかった中国人が誤解したものという説がある[6][7]。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり[8][9]、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる[10]。一方で、

熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している[11](この説は森田悌も支持している[12])。森田悌邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし[13]、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている[14](また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。王仲殊も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする[15]

倭王が天や日と兄弟であるという説明は記紀神話とは一致しないが、兄弟の順序は神獣鏡にしばしば刻まれる「天王日月」と一致する。日と月は記紀神話では兄弟(姉弟)とされる。熊谷は高句麗の王権思想の借用かとしている[16]

 

[15]

王仲殊 西嶋定生監訳 桐本東太訳 『中国からみた古代日本』 学生社 1992年 ISBN 4-311-20181-8 p.145.

[16]

 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』 p.235.

 

 

 

http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/52144169.html

(図 記紀が語る日本列島古代史の時間軸)

https://livedoor.blogimg.jp/oibore_oobora/imgs/8/a/8a96e930.png

 

神武天皇東征を考察

https://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇

 

年代の矛盾に右往左往、振り回されて、前進できない様

 

実在した可能性のある最初の天皇は、崇神天皇であるという説もある[3]

 

[3]

(井上 1973)P275

 

 

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/天武天皇

40代

~673-686

天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位: 673年3月20日天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。

大海人おほあま和風諡号天渟中原瀛真人天皇壬申の乱に勝利して即位した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

niso_042__359__347_364__359_376.pdf

「開皇20年の遣隋使」の 理解をめぐって

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(1)本 稿 で 拠 っ た 『隋 書 』 で は,注 釈 書 と して 石 原 道博 編 訳1985『 新 訂 魏 志倭 人伝 ・後 漢;書
倭 伝 ・宋 書 倭 国伝 ・隋 書 倭 国 伝一 中国 正 史 日本 伝(1)一 』(岩 波 文庫)を 参 考 に した。
また 『日本 書紀 』 で は 日本 古典 文 学 大 系 本(岩 波 書 店,1965年)を 主 に用 いた 。
(2)増 村宏1968「 日出処 天 子 と 日没 処 天 子 倭 国 王 の 国書 につ い て 」『史林 』51-3,1970「 日
出ず る処 と 日没 す る処 につ い て一 栗 原 氏 の批 判 に答 え る一 」 『鹿 大 史学 』18。 い ず れ も同
氏 著1988『 遣 唐使 の研 究』 同朋 舎 出版,所 載 。
(3)鄭 孝雲1999「 遣 隋使 の派 遣 回 数 の再 検 討 」『立 命 館 文 學』559。
(4)こ の 時期 の政 治 動 向に つ い て は,氣 賀 澤 保 規 著2005『 中 国 の歴 史6絢 爛 た る世界 帝 国隋
 
 
362氣 賀澤保 規
唐 帝 国』 講 談社,第1章 参 照。
(5)山 崎宏1942「 仁 寿 年 間 に於 け る送舎 利 建 塔 事 業 」 同氏 著 『支 那 中世仏 教 の展 開 』 清 水 書
店所 載,氣 賀 澤保 規2001「 隋 仁 寿 元年(601)の 学校 削減 と舎利 供養 」『駿 台 史 学 』111,
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