https://ja.wikipedia.org/wiki/新羅の入寇
新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、新羅からの流民や帰化人による犯罪及び国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。
新羅の国内の混乱により、
811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/刀伊の入寇
といのにゅうこう:
寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、さらに九州に侵攻した事件[2]。
この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/小右記
「刀伊」で検索
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/report/view/idata/850/8500/06/1005/0198
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/report/view/idata/850/8500/06/1005/0199
https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇
元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。
1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
「倭寇」と海洋史観
-「倭寇」は「日本人」だったのか-
立命館大学法学部教授 秦 野 裕 介
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf
(わこう)
10190417[1761-1780]/3053件中
「小記目録」 刀伊国の件
十八日。刀伊国の者、壱岐守理忠を殺害する府解、到来する事
「小右記」
今月七日の書に云はく、「刀伊国の者、五十余艘、対馬島に来着し、殺人・放火す。要害を警固し、兵船を差し遣はす。府、飛駅言上す」てへり。惟円、帰り去りて幾くならず、重ねて来たりて云はく、「八日に内房に送る帥の書、同じく飛駅にて持ち来たる。云はく、『件の異国船、乃古島<大宰府警固を去ること、咫尺。>に来着す』と云々」てへり。
源氏物語の時代 / 山本 淳子【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
20070425:第一印刷発行
20080225:第五印刷発行
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目次
序章 一条朝の幕開け
第1章 清涼殿の春
第2章 政変と悲劇
第3章 家族再建
第4章 p130:男子誕生:p137:道長と彰子
第5章 草葉の露
第6章 p180:敦成誕生:p201:道長、御嶽詣
第7章 p216:源氏物語:p234: 伊周没:寛仁元年(10170129)藤原行成の「権記:ごんき」
終章 p242:一条の死p252:道長への直談判:p258:
著者等紹介
山本淳子[ヤマモトジュンコ]
1960年、金沢市生まれ。京都大学文学部卒業。石川県立図書館加能史料編纂室室員・石川県立金沢辰巳丘高校教諭を経て、1999年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了。博士(人間・環境学)。京都学園大学経済学部准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
モンゴル帝国の侵略:
第3章 外交・合戦と地形の秘密
p134:
p142:
1257
1285
1287
1264
1284-1286:樺太の戦い:吉里遂(ギレミ「後のギリヤーク族」)、骨嵬嵬(クイ・樺太アイヌ)