木簡:”韓国アワビに聖武の思い”耽羅タンラ、タムラ:済州島チェジュド:朝日新聞20180623:拓本:百済

耽羅

 

身シン、み

耳ジ、ニ、みみ

尨ボウ、モウ、むくいぬ

 

(身+尨)>耽

 

駹ボウ

牻ボウ

 

 

 

耽タン、トン、ふける

 

百済:くだら、ペクチェ

新羅:しらぎ:藤原四子政権(武智麻呂むちまろ、房前ふささき、宇合うまかい、麻呂まろ)を瓦解に追い込んだ、新羅から蔓延したという天然痘の流行の記憶も・・・。

 

 

 

白子

 

blogs.yahoo.co.jp

 

朝日新聞 土曜版 Beに『木簡の考古学』というコラムがあります
執筆者は、奈良文化財研究所副所長
渡辺晃宏先生。
考古学ファンとして毎回楽しみにしております。

先々週(2018年6月23日)のお題は
”韓国アワビに聖武の思い”。
745年(天平17)の荷札木簡に記載された
耽羅鰒(アワビ)』に関する考察でした。

 

 

 

何気に読んでいたら、
善徳女王に繋がるワードが多数⁉


耽羅とは、済州島(チェジュド)の古名。

つまり耽羅鰒は、済州島周辺に生息した
アワビの事です。

何故、朝鮮半島産のアワビが、
聖武朝の木簡に記載されていたのか?
という疑問から紐解くと
日本と朝鮮半島との外交の歴史が
浮かび上がってきます。



済州島=耽羅は 当時
百済(ペクチェ)に属していましたが
660年に百済が滅亡。

すると耽羅は、短期間ですが、
独立を模索した時期があり、
対外的に『日本』を名乗る我が国へ
何度か使者を送ってきました。
特に天武朝には、日本から耽羅への
使者も派遣される程の交流がありました。

しかし新羅朝鮮半島
統一する(668年)と、
耽羅と日本の交流に関する表立った動きは次第になくなってしまったのです。


つまり、
善徳女王の即位から
百済との交戦が活発になり
朝鮮統一の機運が高まり、
ピダムの乱の直後に崩御した善徳女王の
遺志を継いだ、金?信(キムユシン)と
武烈王=金春秋(キムチュンチュ)により
百済は滅亡の危機に晒されます。

百済は日本へ援軍を求め、
中大兄王子(即位前の天智)は、
救済のため大軍を派遣。
しかし白村江の戦いで、
唐&新羅の連合軍に大敗を喫し
倭軍は、多数の亡命百済人を連れて
日本へ引き返します。


白村江の戦い 
https://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/65813386.html

唐と新羅からの追撃を怖れた天智天皇
国防と国家体制の構築に邁進しました。

しかし、白村江後遺症のため
天智天皇期から、
朝鮮半島や唐との交易は冷え切りました。



しかし壬申の乱後即位した天武天皇は、
唐文化への啓蒙が深く、唐風の政治文化を
導入すべく
唐や朝鮮半島との外交を再び活発化させようと努力します。
新羅との交易の足掛かりとして、
天武天皇が、耽羅との外交を展開し
その副産物として、
耽羅産の高級アワビが、日本の朝廷に献上され、天皇家や貴族の食卓で珍重された
のかもしれません。


そして時が経ち、
天武天皇が種蒔きをした大陸や朝鮮半島との交易は、
曾孫である聖武天皇期に、
天平文化として大輪の花を咲かせます。

それが、調(=租庸調 年貢)として、
耽羅鰒が荷札木簡に記載された理由になります。

聖武天皇耽羅との関係は、
正倉院伝来の周防国正税帳(決算書)にも
記載されています。

738年10月21日
今の山口県東部の周防に、
耽羅人が21人漂着し、
彼らに食料を与えるなど庇護した後、
わざわざ平城京へ呼び寄せた、
との記述があります。

(決算書に日付まで正確に記載した日本人の几帳面さ!モリカケ官僚に喝。)

なぜ、聖武天皇は、耽羅人との謁見を望んだのか?

新羅から蔓延した、天然痘の流行で、
藤原四子が立て続けに病死した
(長屋王の祟りとされてますが、、)
恐怖の記憶も新しい時なのに?

奈良文化財研究所の渡辺さんは、
聖武天皇は、
尊敬する曽祖父が外交の足掛かりとして
交流した、懐かしい耽羅人との謁見を
思い立っのでは?
と推測されています。

もしかすると、
天武天皇は、耽羅アワビが大好きで
その美味を子や孫に熱く語っていたのかも
知れません。
それ故に、耽羅人漂着から7年後、
調として耽羅アワビが献上された
と考えると、なにやら
ほのぼのとしてきます。

食卓の記憶は強烈ですからね!


この様に考察していくと、
善徳女王から武烈王にかけての
朝鮮半島史は
古代日本と深い関わりがあると
改めて思い知らされます。

善徳女王のドラマを見るまでは
表層的な理解のみでしたが、
ドラマを見た後で
このコラムを読むと、
キムチュンチュやユシンなどが
より生身の人間として、間近に見えます。

チュンチュは生意気な早熟の天才児、
ユシンは、生真面目な武将として。

そう言えば、
新羅で猛威を振るった疫病(恐らく天然痘)に苦しむ貧しい患者を助けるため
ムンノに命令されてピダムが薬草(細辛)
を探す場面がありました。

ピダムがトンマンやユシンと出会い
彼らと行動を共にする契機となる
重要な場面です。

また
耽羅アワビが美味で有名ならば、
新羅でも重宝され、
貴族になったピダムも宮廷で、
食したかも知れません。

ピダムの好物は鶏肉ですけど…


新聞に掲載されたコラムから
古代日本と朝鮮三国時代
そしてピダムへと
考察、想像、妄想が膨らみます。
改めて新しい視点を与えてくれた、
ドラマ善徳女王とピダムに感謝です。

21話で
村人から、細辛と鶏肉を巻き上げる
野生児ピダム。

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:TAS-net:20190505045652p:plain

 

 

blog.goo.ne.jp